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「多様性」と「画一性」。



誰だって「自由」が好きだ。

「自由」を求めて生きているし、それが担保されない状態には、大いに居心地の悪さを感じるものだろう。

しかし、何事も「過ぎたるは及ばざるがごとし」である。

「自由」が過ぎると、今度は逆に、その自由の中での居心地の悪さを思い知ることになる。

そんな逆説をエーリッヒ・フロムという学者は、もう80年も前に人々への警鐘とともに唱えていた。

人々は、自由が行きすぎるとその「自由からの逃走」を図る・・・、という。

ボクはこの論に出会った時、なるほど・・・と大いに合点したものである。

ボクとは違って、世の中には「必要以上の自由」が苦手な人々がいる。

いや、実は、そっちの人々の割合の方が「とことん自由を求める」人々よりも圧倒的に高いのではないかという感覚もある。

ある程度の「自由」が保障されていれば、それ以上の「自由」は求めない・・・、そんな人々によって世の中は成り立っているのかもしれない。

フロムによれば、人々は「自由がもたらす孤独」に耐えきれず、結局は「権威」にすがろうとするという。

これはどういうことか?

人が自由を求めるということは、他者の自由も同時に尊重しなければならないということになる。

その場合、自分の自由と他者の自由は、それこそ別物なのだから、それぞれの自由がすれ違うことだってある。

そこに「孤独」が入り込む。

その「孤独」に不安と居心地の悪さを感じる人々は、だから自身の自由を他者のそれにすり寄せて、あたかもそれこそが「自己の自由」であるとする境地に納めようとする。

ホントは「自己の自由」などとは違ったところにある「自由のようなもの」に自己を寄せていくのだ。

それはどうしてか?

人とは違った自分を思い描くことが怖いからである。

で、その行き着く先に待っているのが、すべての人々が「自己の自由」を最大公約の人々にすり寄せたところの「強大な意志」というヤツだ。

つまり「全体主義」である。

「全体主義」や「ファジズム」なんて21世紀の今日では絶対に見られることのない現象だ・・・、

と思っている人々にとっては意外なことだろうが、実は「自由」を少しずつ切り売りしていくことで、人々は簡単に全体主義に絡め取られる。

今、多様性ということが重要視されている。

「画一性」とは対義にある「多様性」を現代社会に生きる人々はことさらに広めようとしている。

ボクの見立てでは、それこそ「画一性」が好きで、その中で生きることが得意な人々が、敢えて(無理して)「多様性」を唱えているような感じがする。

残念ながらボクたちはフランス人じゃない。

フランス人が極端に「自由」と「多様性」に舵を切った「あの革命」以降、たぶん彼らフランス人には混乱が続いているのではないかと、ボクは訝っている。

「自由」が帰結する「多様性」に秩序が追いつかないのではないか・・・。

そんな余計な心配をしているのだ。

ある子どもに「キミは絵が得意なのだから美術大学に行きなよ」と言った時、その子どもはどんな表情をするだろうか?

おそらく3人に2人は表情が曇るはずだ。

「ボク(ワタシ)・・・、普通じゃないんですか?」ってなる。

多様性を根拠に美術大学だろうが音楽大学だろうが、やりたいことを学びに行けばいいものを・・・。

そう言われた本人は、自分は「普通じゃない」と考え、場合によっては塞ぎ込んでしまう。

それが日本人ってヤツだ。

フランス人じゃないってことだ。

「自由」や「多様性」を安易に考え、そして安直に社会に導入しようと企てている・・・、それこそが日本という社会の限界だと思う。

「自由」は、その自由を追求し煩悶し続けたところの人々によって、しっかりと熟成させなければならない。

どこまでの「自由」が人々にとって必要不可欠な決して譲ることのできないものなのか・・・。

どこからの「自由」が、人々の社会に有害性をもたらすのか・・・。

そのことが分かっている人々によって「自由」と「多様性」は論じられ、そして社会システムに導入されるべきだと思うのだ。

そうでなければ、その「自由」が、その「多様性」が・・・、人々の青春に、そして人々の人生に・・・、それこそ呪文のように重くのしかかる。

その重さに耐えきれず・・・、

だから、人々は「権威」の出現を求めるのである。

その意味で、フロムは母国ドイツ人の、そしてこの日本人の気質を冷静に分析していると言えよう。

繰り返す。

現在の「多様性」大好き論者に欠けているもの・・・、

それは、この国の人々の大半が、実は「画一性」にこそ安住の境地を求めているであろうとする想像力だ。

しかし、それとて単にボクの妄想かもしれない。

だってボクは「自由」を追求して、未だに「自由」にすがりついて、なおかつよせばいいのに「実存」の生き方を実践している(と信じている)ところのおめでたい者だからだ。

そんなボクに「画一性」の居心地のよさなんてわかるはずもない。

「みんなと同じ」が、殊更にボクを安心させてくれる・・・、そんな境地に行き着くことができるのか?

きっとボクにはムリな話なのだ・・・、

って、誰かが何処かで言っている。
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