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「勉強と学び」…、その「本位」の違い(2)


前回のブログでは、「お金」が人々の信頼を失った時、社会は大いに混乱するので、国家はその「お金」の信頼を担保するためのあらゆる手段を講じながらも今日に至る…、といった話でした。その「お金の信頼を担保する」ことを「本位」と考え、その「本位」を「金」とした場合に「金本位制」、「政府(中央銀行)」とした場合に「管理通貨制」であるということを確認してみたわけです。

では、(やっと本題…、そして結論です)子どもたちがいつも親や先生から「勉強しなさい!」と言われ続けている「勉強」の本位とはいったいなんなのでしょうか?

私たちは、いったい何を「本位」として「勉強」というものの信頼を担保してきたのでしょうか?

「なんで勉強しなければいけないの?」と言った子どもからの普遍的な問に対して、親や先生はどのように「その理由」を答えるか? どうやら、その答えそのものが、「勉強」に対する「本位」であると言えます。

答え1 「勉強」をすることで頭が良くなり、いい高校や大学に進学することができて、その結果いい会社に就職することができるから。

答え2 「勉強」を通じて、少しずつ自分のことや世の中のことが分かってきて、その「わかった!」という感情や感動が、さらに「勉強」をする気持ちを高めていけば、みんなが楽しく暮らせる世の中をつくることができるかも知れないから。

今での日本における「勉強の本位」とは、確実に「1」の答えと合致します。

つまり「1」を本位とした場合、勉強は「最終的に幸せに暮らすためのもっとも確実な手段」として捉えることができます。よってその確実な手段なのですから、「多少の苦労や競争」は仕方がない…、むしろそういった「努力」を積むことで「幸せ」を掴むことができる…、といったロジックと相性がよく、そのロジックの中から「根性論」や「忍耐論」が、一時期もてはやされたのだと思っています。

よって今までの「勉強」の本位とは、「忍耐と根性と苦行」以外の何ものでもなく、そこに「喜び」など微塵も感じることができません。そもそも「勉強」といった熟語にこそ「強いて勉める」といった「苦と耐」が含まれているのですから、本位そのものに、例えば子どもが「ブラック感」を感じてしまっても、それは至極当然なことであると思うのです。

そう、一部の子どもたちにとっては、勉強は「ブラックなもの」となっており、その「ブラック勉強」に敢えて立ち向かい、大人の決めた価値観(本位)を信じて「苦行」を続けている仲間のことを、実は「お気の毒様…」「そっちの世界で頑張ってね…」などといった冷めた目で捉えているのは間違いないことでしょう。

では、上記「2」を答えとして勉強の「本位」を考えた場合はどうでしょう? この本位の正体は「わかった!とする気づき」「わかった!ことによる感動」「わかった!がもたらす心地よさ」「わかった!を他人に伝えたい衝動」…、そんな気持ちが前提になっていると考えられます。

想像してみてください。

「2」を本位として「勉強」を続けている子どもたちの脳内には、間違いなく「セロトニン」といった「幸せホルモン」が分泌され続け、それが「ドーパミン」という「やる気ホルモン」へと変換されていきます。その「やる気」が、さらに新たな「感動」を生み、それが「セロトニン」の放出を促し…、といった連鎖が脳内に生まれ続けるのです。そこに何ら「忍耐や根性」はコミットされていませんね。

逆に、「1」の状態で「勉強」が続いている場合、それでも「セロトニン」の分泌を期待することができますが、それとて過酷な状況下を見事に通過した、そのご褒美としての「快楽」でしかない…、だから相当な「忍耐と苦行」の末に待ち受けているものとして「幸せ」が設定されている状況です。そんな状況下では、それに勤しむ子どもたちの脳内では、恐らくは「ノルアドレナリン」といった脳内ホルモンの分泌で、「恐怖や脅迫観念」近い状態が常態化しているのではないか…、そのうように想像してしまいます。

「勉強」という熟語…、これを今日からやめてみませんか?

「学び」という、単なる名詞を使って、「学ぶ」といった本来的には能動的な動詞をそのまま使った工夫をすれば、子どもたちは「勉強」を「楽しいもの」「新しい発見、新しいドキドキ、新しいワクワク」といったイメージと重ねることができると思うのです。

「学ぶ」という動詞に、敢えて「強いる」「勉める」といった修飾語は必要ないのです!

ちなみに、「学ぶ」…、その喜びを達成した…、その後の「勉強」ならば、私は大賛成!といった立場です。
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