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「金融教育」は社会科にやらせていただけませんか?



2022年度から高校の家庭科授業に「金融教育」が導入されます。既に高校家庭科では、「消費者目線」からの社会経済の仕組みを学ぶことで、高校生の段階から「賢い(騙されない)消費者」に育つようなプログラムが組まれていた…、具体的には、クレジット消費や各種契約における最低限のリテラシーを学ばせる…、そのプログラムに重ねて、今度は「投資家目線」からの経済を学ばせよういうのが狙いです。

 

1年前の菅政権発足時のスローガンとして、「自助・共助・公助」というフレーズが流行ったのですが、今回の国(文科省・金融庁)からの「金融教育」の実施命令は、まさに国民の「自助」努力によって、それぞれの生活を支えることを要求するものであり、それを国民に向かって静かに宣言したことになるのです。

10年ほど前から、これも静かに国民の間に広めてきていた「積み立てNISA」や「iDeCo」は、そのしくみとメリットを知っている人とそうでない人とでは、税の優遇(控除)という面において格段に差がつくものです。しかし、それを特に国民の間に広めようとする取り組みは、今までのところは、地味なものであったのです。

それには理由がありあます。日本人の「金融教育」に対するアレルギーがその理由です。学校という神聖(?)な場所で「金儲けの手段」を教えるとはなにごとか!とする一部(いや、かなり)の人々からのバッシングが予想されたからです。

よって、10年ほどかけて、水面下で「金融に関するお得な制度」を「国の主導」で地道に広めてきた…、つまり地ならしをしてきたのです。その上で財務大臣が敢えて「妄言」を吐きました。

 

「このままでは老後に2000万円不足する!」と。

これらすべてが、「自助」という名の「自己責任型資本主義」へと舵をきった政府による演出であったと考えることに、もはや躊躇はいりません。

日本社会は、間違いなく「日本型社会主義」を捨て、「自己責任型資本主義」に向かっています。そしてその方向性は、それに異議がある、なしの問題ではありません。資本主義の衣を着けた「日本型社会主義」は、持続不可能な状況に追い込まれてしまったのですから、世界がうらやむ日本の各種社会保障(保険)制度も、早晩、破綻することになると、私たちは覚悟する必要があります。

高校家庭科で実施される「金融教育」の目玉は「投資信託」です。そのために「金融庁」は、わざわざ多数の派遣講師を待機させて、これから需要が高まる高校「金融教育」のための授業を、家庭科の先生に代って行わせようとしています。その派遣講師とは、もちろん「銀行や証券会社」に勤務していたOBの方々です。

 

「投資信託」というのは、ザックリと言えば、個人の判断による「株式投資」には大きな危険性が伴いリスクが高いから、これを「専門家(またはAI)による投資判断」に委ねて、しかも「複数の企業への株式投資に分散する」ことで、できるだけ「株式投資のリスクを下げる」ことを目的とした商品です。

 

そして、この「投資信託」という商品(システム)は、案外と日本人の一般家庭には馴染みやすいのではないか…、それほど日本人は「リスクを恐れる」傾向が強いが、「投資信託」であれば「大きな損失は出にくい」…、そう考えた政府が「貯金」や「預金」に代わる概念として「投資信託」を日本人の間に広めたいとする狙いがわかる気もします。

 



そもそも、「貯金」や「預金」は、「貯蓄」…、つまり「貯める」ことが目的の概念ですが、その概念を子どもの頃から染みこまされてきたところの日本人に「投資信託」という「投資」の概念を染みこませるには、民間による「広報活動」では無理があり、あまり国民に向かって「投資、投資!」と煽ぎまくると、件の金融アレルギーが国民の間に再燃してしまう恐れがあります。

 

だから「学校教育」なんです。

 

そして、だから「2~3時間程度の金融教育」でいいんです。

 

しかも、だから「家庭科」がいいんです。

 

つまり、「金融教育」をもしも社会科の先生がやるってことになったら…、これって国家にとってはかなりヤバイことになるってことを政府は(たぶん)想像するんです。

 

なんで「ヤバイ」のか?

 

社会科で「金融教育」という名の「投資信託」システムを学ばせようとした場合、当然のこととして「株式会社」という人類史上最大の発明ともいえる会社の「しくみ」を正しく教えなければなりません。そのためには、前提として「資本主義」の「しくみ」と「歴史」にも触れなければならなくなるでしょう。

 

ところで、社会科教員の使命として、子どもたちから発せられる「なぜ?」には、真摯に応えなければなりません。そして、高校の歴史(日本史・世界史)を教科書で学ぼうとした時、生徒から普通に「なぜ?」が湧いてくるはずです。時間があったら一度でいいから「小説日本史」「詳説世界史」を読んでみてください。大人にだって「なぜ?」と突っ込みたくなる箇所が無数に存在する…、それが現行の教科書です。

 

しかし、今までは、生徒からの「なぜ?」は意図的に封印されていました。

 

それは「なぜ?」か?

 

大学入試に特化した授業が主流でしたから、400ページにも及ぶ教科書の記述に関する「なぜ?」にいちいち立ち止まっていることができない状況に学校側が追い込まれていたからです。そしてそういった環境の元凶となっていたのが、「センター試験」というヤツだったのです。

 

つまり、センター試験では、決して資本主義や社会主義、そして「株式会社」の本質的な「しくみ」を問うような問題は出題されません。つまり資本主義や株式会社の本質に迫った場合、そのネガティブな部分にも、当然にフォーカスを当てなければならず、ということは、これも当然に資本主義や株式会社に対する「厳しい目」をもった国民を輩出しることになってしまうのです。

 

私は、いわゆる「出羽守」ではありません。

 

よって、やたらと「欧米では…」を繰り出して、欧米のあり方と日本のそれを比較する立場でもないのですが、こと資本主義と株式会社の成り立ちとその運用に関しては、やはり「欧米では…」を前提にしなければなりませんから、ここは敢えて「出羽守」に徹してみようと思います。

 

欧米では、資本主義と株式会社の「特殊で特別な関係」については、学校のみならず各家庭の教育で子どもたちに教え込まれます。欧米人にとっては、自らの祖先が最良の策として社会に導入した資本主義と株式会社を正しく「教えなければならない!」とする使命感のようなマインドが大人たちにはあるようです。

 

それは、自分たちが運用し営んでいる「資本主義と株式会社」には、国民の暮らしを豊かなものとするための「可能性」が最大限に秘められてはいるものの、その扱いを間違えた場合は、それらは必ず暴走し、結果、人々が不幸に陥ってしまうであろうということを先人達から学んでいたからです。

 

よって、今次のSDGs運動の世界的な盛り上がりは、現行の資本主義(新自由主義的資本主義=株主資本主義)に代わる、新しい資本主義の理念として、その世界標準を改めてSDGsで規定することで、その方向性にいち早くコミットした企業のみが市場で生き残れるようにするものであると考えることができます。

 

つまり、SDGsそのものを「初めから推進していたのがヨーロッパ人」であったことに注目しなければなりません。

 

彼ら(ヨーロッパ人)は、完全に資本主義が暴走し始めたことを察知したのです。

 

「GAFA(W)」というモンスター企業の台頭を許してしまったことに対する「大いなる反省」を根拠としてSDGs運動が展開されていると考えるならば、気候変動対策、温暖化対策、自然回帰、人権擁護…、といった一連のSDGsの理念には「合点がいく」のですが、そのこと(運動)自体を「新たなるビジネスチャンス」であると公然と口にするところは、白人の狡猾さと言っても言い過ぎではないでしょう。

 

話を戻します。

 

日本における「金融教育」を社会科に委ねないのは、センター試験が「大学入試共通テスト」に置き換えられてから、地歴・公民科目での問題傾向が「明らかに変わってきた」ことと無縁ではないと思っています。センター試験に比べれば、はるかに「社会科学的探究心」を伴った学習を、しかも早期の段階から続けていなければ、解くことができない内容となっているのです。そしてそういった傾向は、今後も続くことが予想されます。

 

つまり、現在の「共通テスト」がさらに深化した時、間違いなく高校における社会科全般の授業内容は「大幅に改善しなければならない」ことになります。これを怠っていたら、「共通テスト」のみならず、これからますます改定される(はずの)大学独自の入試問題に対応することができなくなるからです。そして、そういった大学入試問題が徐々に現れ始めました。

 

前回のブログでも紹介しましたが、慶応大学のSFC(湘南藤沢キャンパス)は、そのAO入試で「30分の口頭試問」を実施するようです。教授陣3人に対して受験生1人という「これ以上ない過酷な状況」における口頭試問です。これまでのセンター試験程度で鍛えた「頭」では、到底、太刀打ちできません。

 

だから、高校の上位校から、社会科の授業内容は、段階的に「本質を学ぶ」⇒「しくみに気づく」⇒「そこからの課題をみつける」⇒「みつけた課題の解決策を考える」といったプログラムに沿ったものとなっていくでしょう。そうしなければ、例えば国際社会で「バカにされる日本人」を大量に輩出してしまうことが分かっているからです。

 

しかし、そうなると困ったことが起こってしまいます。

 

国民が…、少しずつ「利口」になってしまうのです。

 

特に、日本の資本主義と株式会社を長年にわたり「上手に操ってきた」ところの利益集団にとっては、国民が利口になってしまうということは、実はあってはならないことなのです。

 

結論から言えば、政府は国民が、特にお金のことに関して「あまり賢くなってほしくない」と考えていることは間違いありません。つまり、これからもこの国の資本主義における最大の「利益者集団」の一員であり続けたいとする一部の政界・財界の人々が、どのようにしたら「国民のお金を金融市場に流出させることができるか?」と真剣に考えた…、その結果としての「投資信託」であり、「金融教育」であると判断することができます。

歴史は、時に恐ろしい「事実」を私たちに教え遺してくれています。

 

「戦時貯蓄債権」というのをご存じでしょうか?

 

ちょうど80年ほど前、戦況がふるわなくなった当時の日本政府は、既に底をついた軍事資金を「国民のお金を吸い上げること」で解消する策をとります。それが「戦時貯蓄債権」です。国民には、もちろん「お得感」をもたせます。当時としては破格の金利をプレミアムとして債権に乗せ、政府による「この戦争負けるわけない!」とするプロパガンダを敢行したのです。

 

人々はこぞって「戦時貯蓄債権」を購入します。

 

そして敗戦です。「債権」は…、もちろん紙くずになりました。(本当のところでは昭和30年位までは、戦後国家が「償還」に応じていたのですが、それとて超インフレによる「紙くず同然の価値しかなく」、それ以降は文字通り、タダの紙くずです)。

 

こういったことが実際に起こったのは、当時の日本における「資本主義」と、その資本主義の旗振り役であった「メディア」が、ごく一部の人々によってハッキングされていたから…、つまり国民は完全にそういった「社会のしくみ」からは埒外に置かれていたからです。

 

この過ちを繰り返さないようにするためには…、国民は「賢く」ならなければなりません。

 

80年前と同じことを現政権が考えているとは思いたくはありません。しかし、今次の学校教育における「金融教育」は、国民の生活の安定と幸せを願うための善意の手段…、とする表向きの目的だけではなく、その背後に備わっている「本当の目的」について、私たちはもっと真剣に考える必要があるでしょう。

 

既得権益によって利益者集団の一員である人々からすれば、賢い国民は、これまで通りに、互いの「既得権益」を決して犯さない(そういった事情がわかっている)一部の人々であってほしいわけです。

 

教育を「国が一元的に管理している」ということはそういうことなんです。

 

「金融資産税」…、これ、本当に実施するのでしょうか?

 

「金融教育」は、よって日本人が「お金のことに関しては無知」である状態のまま、「自助」社会を実現するための「アリバイ作り」以外の何ものでもない…、そのように私は考えました。
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