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お父さんは、なぜ「キャンプへ行こう!」と言い出すのか?(11)



「ママ友ネットワーク」の功罪

必死になって子育てを続ける「妻」が、時折見せる「苛立ち」の正体を、実は「夫」とて何となくではあるが気づいてはいるものである。しかし、その気づきを妻への優しさに変えようと悶々としている間に、というかそんな「悶々」としているだけの「夫」に対する限界を、かなり早い段階で判断する「妻」によって、「夫」への容赦のない攻撃が始まるのであるから、「夫」の妻への優しさは、結局のところは、出る幕を逸してしまう。

改めて言うが、「夫」は「妻」への気遣いを、それを「する準備」はできている。ところが大抵の場合、そのタイミングの悪さから、逆に「妻」の神経を逆なですることを、日々の経験から「夫」は学習しているから、その「気遣い=優しさ」を日常では封印しているのであって、決して「妻=母親」が子育てに感じている「底なしの苦労」に鈍感なわけではない。

そんな「夫」と「妻」の互いの「思い」のズレを解消するためには、まず「夫=男」は、子育てによって身体的にも精神的にも「妻=母親」が感じている「非日常性」を理解しなければならないのであろう。実は「妻」とて、「心身が常時悲鳴をあげている」という状態を経験したことはなく、その未経験からくる「不安」と「疲労」が、自身の感情面のかなりの部分に「異常」をきたしているという程度の客観的理解はできている。しかし、その「非日常性」を共感することができないことを「夫」に悟ってしまった場合に「妻」の苛立ちが増幅するのであるから、「夫」は、「妻」がその救済措置として、例えば、地域の「ママ友ネットワーク」に依存し続けているという厳然とした事実を、まずは認識する必要がある。

ママ友ネットワーク上では「家族の恥部」を吐き出すことで、互いの絆が強固なものへとなっていく(らしい)。例えば、妻が自らの「夫」の「鈍感」「無能」を吐露することでネットワーク上の共感を得る・・・、それは妻にとっての一時的な「麻薬」となる(みたいだ)。つまり「そ~よね」「わかる、わかる!」という「共感」は、「妻=母親」の孤独感を和らげ、そこに集うママ友仲間との(期間限定ではあるが)ある種の「共依存関係」を構築させるからだ。その結果「妻」は、子育ての苦労を共にする「夫婦関係」の理想的な構築をあっさりと諦め、それこそコスパの良い「ママ友ネットワーク」上での子育てへと舵を切っていくのである。

この「ママ友ネットワーク」というのは、大抵の場合は子どもの高校進学まで続くことになる。そしてそのネットワークは、そこに集う母親仲間のそれぞれに「安心」「安全」「共感」をもたらし、彼女らがそれぞれに抱える「子育ての不安」や自身の「家族に内在する不満」を確かに和らげてはくれる・・・、という意味では存在価値が大いにある。しかし、同時に、そこに集う母親仲間のそれぞれがすでに薄々気づいているように、そのような「便宜的・擬似的」な要素を多分に覆ったところの人間集団には、彼女らの抱える問題を根本的に解消する機能はない。よってそのことを理解しているネットワークの構成員は、互いに己の築いてきた「思想」や「哲学」をネットワークの住人に披露する機会も必要性もなく、つまりは彼女らの「安心」「安全」「共感」は、本当はそれが不完全な状態であることを知っていながら、そのような構造に依存しているのである。

ママ友ネットワークを構成する現役のママさんたちからは叱られそうであるが、私は、「ママ友ネットワーク」は「女子高生ネットワーク」の相似形であると見ている。

女子高生ネットワークとは、仲間内にそのヒエラルキーを絶妙に取り入れながら、学内で、青年期であるがゆえの複雑な「思い」や「感覚」を共有しながら、互いの「安全を保障する」ことで出来上がる互恵集団であると言ってもいい。男子高生のネットワークとの違いは、ただひとつ「粘着性」である。つまり男子のそれに比べると「女子高生ネットワーク」では、それぞれの構成員の帰属意識は高く、また依存性も強い傾向にある(ような気がする)。

男子高生の中には、そういったネットワークの埒外で独自の青春を展開する者は、それこそ「変人」「オタク」などと呼ばれながらも、それなりに存在自体は認知されてはいるし、案外とその割合も少なくはない。しかし女子に至っては、そのような存在は稀で、もしもそういったカタチで確信的な「ひとり」を生き抜いていこうとする場合、彼女は「ロックな存在」として、逆にリスペクトされるか、完全に無視されるはずだ。

「ママ友ネットワーク」は、このような「女子高生ネットワーク」の10年後を想像するとわかりやすい。ただ注目しなければならないのは、両ネットワークとも、共に「同じような属性」をもつ人間集団(ネットワーク)によって構成されやすいということである。つまり、かつて女子高生ネットワークを構成した・・・、その力学と同じような無意識の力関係の下で、ママ友ネットワークは構築されているはずだ。つまりは同じ地域に住まう、似たような家族構成、似たような学歴と収入・・・、そこから見られる似たような考え方、似たような価値観・・・、そういったものをベースに構築されていると考えられる。そして、そのようなネットワークへはたくさんの「ママ友」が出入りするはずであるが、「ネットワーク」自体が、ママ友の「分類機能」を持っているので、時間の経過と共にそのネットワーク上に残る「ママ友」は、より属性が近い(=濃い)集団となりやすく、だから「共感性」を高く保つことができるのであろうと推測することができる。

女子高生ネットワークの有効期限が3年間という絶妙な期間であるのに対して、ママ友ネットワークのそれは、場合によっては15年間という長期にわたる人間集団となるのであるから、その機能の功罪を十分に考慮した上で、ネットワークの利用に意識的な制限を加えないと、実は「取り返しのつかない方向」へと「家族」が導かれていってしまう場合もある。

地域のコミュニティーが希薄になってきた、特に都心部において、この「ママ友ネットワーク」は、子育てとその後の「教育」に繋がる大切なインフラともいえる存在となっている。つまり「ママ友ネットワーク」は、女子高生のそれのような互恵的要素だけではなく、今日では学校と巧妙に連携したところで存在する。よって何人も、この「ママ友ネットワーク」を完全には無視することはできず、学校も、実はそのネットワークが有する「情報伝達性」と「価値の同質性」を考慮に入れた教育活動をしているのだ。つまり学校も地域毎に個別に存在する「ママ友ネットワーク」に依存していると言ってもいい。物理的に学校組織とは直接には連結していないが、例えばPTA活動の中で、その末端機関として「ママ友ネットワーク」のリーダーが、PTAを上部団体として緩やかに繋がっていることは大いにある。

本来的には、子育てと教育、それにそれぞれに有する「家族への不満」や「困惑」などの受け皿としての互恵機関として存在するだけであった「ママ友ネットワーク」は、このようにして完全に学校教育との同質性を内在するカタチで地域に根を張るようになったのは、健全なコミュニティーの不在という「無機質な社会」の中で、本能的な危機意識を抱いたところの母親集団の「思い」が、強く働いた結果なのかもしれない。

ただ、すでにお気づきではあろうが、この「ママ友ネットワーク」には「危うさ」も内包されていることは確かである。そしてその「危うさ」は、今日的な学校教育が内包している「危うさ」と共通するものがある。

それが「異質性の排除」である。

20世紀の末から今世紀の初めにかけて、劇的に変わりゆく社会の要請に対して右往左往し、試行錯誤を重ねてきた学校教育の方向性が、最近になって、何となくではあるが、確実に「決められた」ような気がしているのは、私だけではないであろう。

しかも、その「決められた」(ということは人々の合意を得たのであろう)学校教育の方向性とやらは、個人的にはあまり歓迎できるものではない。「イヤな感じ」が漂うその「方向性」とは、「日本国の再生」と、その再生を担う「国民への再教育」にある・・・、と私は睨んでいる。それは、思えば15年前に誕生した第一次安倍政権誕生時のスローガンであった「美しい国、日本」構想が、それを水面下で支持する驚くほどたくさんの団体や個人による、長きにわたる運動の結果、やっと結実したところのものであろうが、その過程で、私にも襲っていた「イヤな感じ」が、きっと相当数の人々の内心では、それが徐々に希釈され続けながら、ついには市民権を得るほどまでに「ほどよい感じ」へと昇華していったのであろうことを意味している。その意味で安倍政権を継承する菅政権を含めて、自民党本流が目指す「日本再生構想」は、まず学校教育を国家のコントロール下に置く、という点に関しては成功したと言えよう。

「欲しがりません勝つまでは」というフレーズを知っている方も、ずいぶんと減ったのではないかと思う。

これは今から80年ほど前の戦時中に、日本国民の戦意を昂揚させるために、国家が国民からの「標語」を募集し、見事その1位を獲得した作品である。驚くなかれ、それを作ったのは当時小学校(国民学校)5年生の少女(11歳)であったが、この少女は「欲しがりませんの〇〇さん」と言われ続けて「時の人」となった。

が、ご想像のように日本の敗戦とその後の民主化により、戦後の「〇〇さん」には大変な悲劇が襲ったという。国民的英雄(少女)が、戦後には「非国民」と揶揄され、戦争犯罪者らと同じカテゴリーの中で、人々からどのような目で見られ続けていたのかを想像するにつけ、国家とは、そして教育とは、さらにその教育によって教化されたところの国民とは、いかに恐ろしい存在であるのかを思い知らされるのである。

このような事実(歴史)と現行の学校教育を、もちろん同一線上で語ることはできないが、「日本再興」を目指し、その原動力を学校教育に見いだそうとする政権の下に、今、一元的に「学校」が、それを束ねる教員を含めて「ひとつにまとめられてきている」という事実を、私たちは絶対に考慮するべきである。その結果として、日本が「美しい国」へと近づくのかどうかは別(どうでもいい)として、その過程で、これほどまでに「学校教育が一元化」され始めようとしている時代は・・・、そう、戦時中の国民学校の設立以来・・・、ない。

現行のコロナ禍にあって、私の住む自治体では、毎夕、地域全域をカバーする「防災放送システム」によって「住民への外出自粛要請」が発信されている。そのこと自体にあまり違和感を感じたりはしない。自治体とて、コロナウィルスが地域社会に流入することを防ぎたいし、そのような地道な活動によって、確かにコロナ感染は最小限に留められていることは事実であると思うからだ。

しかし、その「防災放送システム」を使って四方に張り巡らされた拡声器から発信される「声の主」に、私は大きな違和感・・・、というか「ある種の恐ろしさ」を感じ取ってしまうのである。自治体は、地域のあらゆる団体の関係者らの「声」を「防災放送」に乗せて「外出自粛」を発信する。自治会連合会や各種市民団体の代表が、それこそ「非の打ち所のない」、自治体にとっては実に適正な表現で(もちろん事前の「検閲」は入っているのであろう)それぞれが「外出自粛」を住民に呼びかける。正直なところ「鬱陶しい!」とは思う・・・、が、それは認めよう。

ところが、住民に「外出自粛」を呼びかける、その主体に「小学校や中学校の児童・生徒」をかり出すという自治体の発想には、まるで納得がいかない。

次に示すのは、私の住む自治体内で、夕方の4時半に実際に流された女子中学生からの発信内容である。これを聴いて(見て)、そこに潜む「とてつもない『恐ろしさ』の正体」を一緒に想像していただければ幸いである。

「私は〇〇中学校の〇〇です・・・(中略)・・・私が愛する「家族」、それに大好きな「おじいちゃんやおばあちゃん」を守るためにも・・・外出は自粛しましょう!」

しかし、本当に「恐ろしい」のは、このような「発信」を全住民対象に行わせて、そのこと自体に「名誉」を感じてしまう、例えば女子中学生やその保護者、それにその原稿をきっと添削したであろう学校の教員の存在であり、そもそも「防災放送」に「子どもの声」を乗せて住民の関心を引こうとするなどという自治体職員の安直な発想である。彼ら「大人」は、無意識のうちに「自身の行為」は「善行」であるとする前提から、その「善行」を「子ども」に無条件で行わせ、こともあろうに(たぶん)それを大いに評価する。

そして、そういった行為が「子どもの政治的利用」となる可能性があること自体を、彼ら「大人」は知ろうとはしないし、物事をそのような多角的方面から検証するというようなデリカシーにも欠ける・・・、そのような「大人」が、ホントに社会や教育の中心を占めるようになった・・・、という事実に私は底知れぬ「不安」と「恐怖」を覚えるのである。

そのことが「ママ友ネットワーク」とどんな関係があるのか? と訝しがる方も多いとは思うが、「学校」も「ママ友ネットワーク」も、その機能が行きすぎたモノに進化した時、異質なものを無意識下で排除するための「フィルター」の役割を、結果的に担う可能性がある・・・、ということを覚えておいた方がいい。

例えば、地域に流れる「防災放送」を耳にして、「ほら、あれ〇〇ちゃんの声だよ、スゴイね」とする賞賛の「声」の中に、「なんか、おかしくない?」「なんで中学生なの?」という一部の「声」が混じり合っているならば、「ママ友ネットワーク」は健全に機能していると言ってもいい。

その意味で「ママたち」の学歴がそれなりに高くなったということは、そんな「良識をもった」そして「ものごとの本質を見抜くことができる」人々による人間集団に、「ママ友ネットワーク」がなり得るということでもあり、つまり「ママ友ネットワーク」は、可能性としては「学校教育を冷静に判断し、チェックする機関」にもなり得る・・・、ということなのである。

よって、個人的には、ネットワーク上の構成員に「同質性」のみを求めて、互いの「心の安全保障」をひたすら追求するだけの、それこそ女子高生的な人間集団から、確信的にアップグレードした「知的なママ友ネットワーク」へと進化したものになってもらいたいと願っている。

そしてそのような地域の「高いチェック機能」を備えたネットワーク上で、これからの子どもたちの「子育て」と「教育」を考えるといい。そしてそのような取り組みをしない限り、その良し悪しは別として、「学校が子どもたちの将来に多分に関わってくる」ようになる。別な表現をすれば、「学校との『相性の良し悪し』が子どもの将来に大きな影響を及ぼす」ということである。

実際に、学校では「善意による子どもの選別」が、既に始まっていることを知らせておくが、その「選別」がどのようなシステムによって進行しているのかについては、項を改めて説明したい。

しかしその「子どもの選別」は、結果的に国家にとって「都合の良い子ども」と「そうでない子ども」に振り分けていくことになるということだけは予め知っておいた方がいい。繰り返すが、その「選別」とは、あくまでも「善意」で行われるものであり、その学校教育に携わる誰一人にも「悪意」はないのであるから、厄介なのである。

私が「ママ友ネットワーク」の存在に、なぜこだわっているのか・・・、についてお分かりいただけたであろうか?

「ママ友ネットワーク」には、国が「善意」という旗印の下で行おうとする子どもへの「過度な介入」を、それを点検し、それに修正を要求することができる・・・、そんなポテンシャルが備わっていると感じている。そして、場合によっては「学校の善意とやら」を凌駕することのできる「良識」を備えることができる唯一のコミュニティーともなり得る・・・、そう思っているが、いかがであろう?

(つづく)
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