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敢えて「高校野球」に思う。



夏の高校野球が中止となった段階で、スポーツライターの小林信也氏の記事がとても印象的だったので、昨日、その記事をFBでシェアさせていただきました。日頃から私が思っていた高校野球に対する複雑な心境を、氏に代弁してもらったような私にとっては清々しい記事内容だったのですが、はたして世間ではそのような現状の高校野球に革新を吹き込むような記事には反応が薄いのであろうと思いきや、その意に反して思わぬ反響が多くありました。この国では高校野球の動向が国民的関心事になっていることを改めて思い知ることになったのです。したがって今日、改めて小林氏の記事を元に未来の高校野球のあり方を考えてみたいと思います。



今回の(夏の)大会の中止を発表したのは大会会長の朝日新聞社長でした。「高校野球は教育の一環」と言いながら、「春もそうだが、夏の甲子園も結局、新聞社のイベントなのだという現実を改めて思い知らされた」と小林氏は言います。メディアとスポンサーによって意図的に肥大化させられた「高校野球」という「売れる商品」に群がる大人たちの姿が、目を覆うばかりのえげつなさと共に見えてしまうのですが、当然ながらそこに子どもたち(生徒)の影は見えません。

「中止を受けて、『代替大会を開くべきだ』といった声が高まっている。『こんな時こそ、大人たちにできることがあるだろう』という提言も一理あるが、筆者は、いまこそ『選手たち自身に考え、アイデアを出し合ってもらいたい』と願う。」

「甲子園を目指すだけが高校野球の目的ではない。」

「トーナメントで優勝を決める以外にも、野球を楽しみ、野球の深さや素晴らしさを味わう機会はいくらでも作ることができる。対抗戦や親善試合、世代を超えた交流試合や練習会など、すぐに思いつく。それを高野連の大人や新聞社をはじめとした企業が考えるのではなく、高校球児自身が、自分の学校の特性や地域性をふまえて考え出す姿勢こそ、大切な教育ではないだろうか。」

「都道府県をまたぐ遠征が(中略)難しい場合、各都道府県内で似たようなチームでリーグ戦を開くなど、楽しみ方は無数に浮かんでくる。」

「筆者は全国各地で新しいアイデアが実行され、新たな夜明けのように、高校野球の新しい息吹が沸き起こる未来を楽しみにしている。」

なぜ、これほどまでに小林氏は現行の高校野球の改革を願うのでしょうか。新聞社と高野連主体の伝統的高校野球大会そのものの解体を狙っているともとれる氏の主張には、次のような「思い」が根底に存在するからです。



夏の甲子園大会の中止が決まった時、小林氏は現場の監督のコメントに注目しました。

「現場の監督や元監督たちのコメントを聞くと、『3年生がけじめとなる大会なしに終わるのは可哀想だ』という点で共通している。これまでの成果を発揮する舞台は誰もが望んでいるのだから、そういったコメントが出るのは当然だろう。ところが、よく聞いてみると、多くの監督たちの言葉の端々には少し違ったニュアンスが含まれていた。『死に場所を作ってあげないと、きっと終われない』…。取材を通じて敬意を抱いている監督の1人がそのように語っていた。その姿を見て筆者は、つくづく高校野球に携わる人間に染みついている『悪しき勘違い』に気づかされた。」

小林氏の言う「悪しき勘違い」…、これを私もずっと以前から感じていました。私がそのことに気づいたのは、いや、私に気づかせてくれたのは、前の職場(高校)での野球部監督でした。その監督はきっととっくに気づいていたのです。高校野球につきまとう「悪しき伝統」と「悪しき勘違い」に。ですから監督の指導方法は独特でした。勝負の勝ち負けには(たぶん)こだわりません。それよりも野球部員の日常の生活の仕方や考え方…、これを普段の練習を通じて徹底的に鍛えていたような節がありました。よって監督にとっての喜びとは、まさに「部員の人間的な成長」だったのです。もちろん、現役の部員は監督のそういった「思い」には気づきません。「勝つための野球」しか学んでこなかったのですから、中には反感を抱く部員も少なくなかったと聞きます。

小林氏の主張は、次の部分でも(きっと)その監督の考えに通底するものがありました。

「高校野球は全国大会で優勝する1チームを除いて、その他全てのチームが負けて終わりを迎える、という『負けたら終わり』というトーナメント方式で100年以上も運営されてきた。『その刹那がドラマチックでいい』とさえ認識されている。」

「高校野球の封建的な体質は、しばしば戦時中の日本の世情と重ねて語られる。監督に服従し、頭を丸め、犠牲的精神を美化する。飛躍した指摘とも言い難いはずだ。『死に場所を作ってあげないと』という意識は、まさに戦争体験の追従ではないだろうか。」

そして小林氏は最後に日本国民に対し警鐘を鳴らします。

「毎夏、甲子園の高校野球を通して、自分たちのDNAに刻まれた敗戦の体験を追認し、どこかで感傷に浸っていたとすれば、それこそ打破し、捨て去るべき習慣ではないか。」



高校野球は、そこに青春を賭した生徒(子どもたち)のためだけに存在するものであっていいでしょう。高校野球の周辺で「お金」の匂いをプンプンさせた大人たちが、高校生を妙にたぶらかしてはなりません。

「甲子園で少しでも活躍して、アピールできたらいいと思います…」と言う高校球児。彼はいったい何にアピールしたいのでしょうか。ドラフト会議へのアピールですね。

すべての元凶がそこ…、つまり「お金」にある現状の高校野球は…、だから改革されねばならないのです。

 
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