「教科書が読めない子どもたち」の実態がつかめてきた。
私たち(教育の未来プロジェクト)は、教育の現状における様々な現象や問題について、それらにじっくりと立ち止まりながら「学んでみよう」「考えて見よう」といった姿勢を、教員の側が常に持ち続けることが重要である…、といったコンセプトの基で、毎月の月末土曜日の夜に「教員応援セミナー」を開催しています。
教員応援セミナー2月は、「教科書が読めない子どもたち」…は本当だった!をテーマとしで、現場で教えている先生方からの実体験として「教科書が読めない…」ことの検証を行ってみました。私たちの「教科書が読めてない?…」という、今の学校で学習する子どもたちに抱く違和感は、2018年に刊行された、数学者の新井紀子氏による「AI vs 教科書が読めない子どもたち」という書籍によって、膨大なデータ(RST=リーディングスキルテスト)に基づく裏付けを得ることができていますが、その「教科書が読めない…」子どもたちが、「なぜ?」「いつ頃から?」出現してきたのかについての本格的な検証は、未だ為されていなかったからです。
そこで、私たちはセミナーによって、その「なぜ?」と「いつ頃から?」、そして「どのように読めていないのか?」に焦点を絞って考えてみることにしたのです。その結果、もちろん未だ推測の域を出ませんが、参加する大方の人々が共感する「なぜ?」が見えてきました。
<なぜ、教科書が読めない子どもたちが出現してきたのか?>
・生活言語の延長線上で学習をしようとする子どもたちに、本来の学習言語が備わっていないからで はないか…、つまり幼少期からの言語獲得期に何らかの問題が孕んでいる可能性がある。
・言語獲得期における何らかの問題のひとつとして考えられるのが、子どもたちを取り巻くコミュニティーのサイズが最小限になってしまっていること…、それにより異年齢間で交わされる言語、または大人が使う日常的社会言語との接点がないまま「学齢期」に突入したことが、学習言語への獲得を阻害しているからではないか。
・社会やそこで子育てをする保護者が学校教育に求める「教育の質」が「コスパ至上主義」に陥ってしまっているからではないか。
・このことの代表的な事例として、学校における先生方が、子どもたちの学習のために「良かれと思って作成している」、または学習教材会社が、教員の負担をできるだけ軽くする目的で、やはり「良かれと思って膨大に作成されている」ところの「学習プリント」や「学習ドリル」が、本来の学習の本質から離れて「語句や用語」を単に覚えるためのツールとして広く流布しているからではないか。
・その状態から、子どもたちにとっての「学習」の意味が、反復練習による「ものごとの暗記」に特化され、いかにして効率的に「覚える」「暗記する」ことができるか…、そのことのみにエネルギーを費やした結果として、たとえ「教科書が正確に読めなくても」ある程度の成績を修めることができてしまうことに問題があるのではないか。
・さらに上記のような学習における「コスパ至上主義」は、進学塾によってそれが濃密化されてきたという現実を無視してはならない。塾は「学校教育をその後の受験能力へと繋げるため」のコスパ至上主義を極限にまで追求し、それが保護者や子どもたちに支持されてきたことは厳然とした事実であるからである。
・そして、その学習におけるコスパ至上主義は、高校受験や大学受験での入試問題を解く能力に見事にマッチングしていた…。つまり入試問題そのものが「覚える」「暗記する」を効率よく身につけた子どもたちにとって有利な働きをするように出題され続けてきた。事実、ある程度の「覚える」「暗記する」能力があれば、現行の高校受験や大半の大学受験問題は、過去問をベースとした反復問題の特訓によって、それこそ合理的に合格点には到達できるような問題構成になっている。
・よって、学習におけるコスパ至上主義は、子どもたちに「正解のみを求めること」、あるいは「正解さえ覚えてしまえば勉強は大丈夫だということ」といった、決定的なメッセージを与えてしまった可能性がある。
これらのことは、つまりは、子どもたちに「教科書を正しく読めること」に対するモチベーションの低下をもたらしているはずです。実際に「不登校状態」にある子どもの中には、「学力に問題がある」子どもたちが存在する、その同じくらいの比率で「高学力」を維持している子どもたちも存在しています。そういった彼らにとって、(想像するに)学習とは「読み」「書き」「考える」以外の何ものでもないでしょう。かれらはコスパ的学習体系の埒外で、場合によっては「教科書のみ」によって学力を維持していることも考えられます。そして、この「教科書のみ」でも、それが正しく読み取りことができれば、事実、学力は担保されるようになっているのです。その位、教科書には重要な情報が詰まっています。
であると同時に、そして、であるからこそ…、「教科書が読めない子どもたち」がたくさん現れてきたのであるとも言えます。つまりそれは、「教科書のみ」でも「学力が担保される」状態にするためには、教科書に詰め込む「情報量」が極端に多くなります。しかし教科書のページ数には限度がありますから、編集者は「ある方法」によって、ページ数を押さえながらも「豊富な情報量」を埋め込む秘策を考えるのです。
それが「熟語の多用」による「教科書記述の圧縮編集」です。つまり、このことは「覚える」「暗記する」を結果的に助長させてしまいました。だから、教科書で学習上のなにごとかを説明する際に多用される無数の「熟語」の正確な意味が理解できていることが、「教科書が読める」ことの前提となります。
それには既知の熟語が当然に使用されますが、その既知の熟語を「覚える」「暗記する」でやり過ごしてきた子どもたちにとっては、そもそも、その「熟語の意味」を考えながらの学習習慣はほぼありません。「読めればいい」「書ければいい」からです。熟語を形成する「漢字」の「訓読み」に対する、極端な無関心が「熟語を多用した状態で圧縮されている教科書の文章が、本当の意味で読み取れていない…」、だから「読めていなくても点数が取れる勉強に特化しよう…、そういった勉強を学校も塾も勧めている…」といった子どもたちに広がる「誤った認識」が、現象となって現れているのではないか…。
それが「教科書が読めない…」の「なぜ?」に対する答え(推論)になりました。
そして、その現象は「いつから?」と「どのように読めないのか?」…、さらには、その「読めないをどうしたらいいか?」についての具体的な検証が、次回(3月)のセミナーのメインになってきます。
このことを深掘りしてみたい方は、是非とも3月の教員応援セミナーにご参加ください。2月のセミナーとの連続性がありますので、3月セミナーに申し込んでいただいた方全員に、2月のセミナーで使用したテキストを無料にて送付させていただきます。
3月セミナー ↓
https://peatix.com/event/3181979/view
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