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地元志向という「撤退の知性」



都市で働くサラリーマンよりも、地元に残った、いわゆる「ヤンキー」と呼ばれる人たちのほうが、どこか安定した、満足度の高い生活を送っているように見える。

しかし、この感覚を語ると、しばしば眉をひそめられる。
それは「努力否定」だとか、「向上心の放棄」だとか、あるいは単なる「気のせい」だと片づけられるのだ。

だが、これは気のせいではない。
むしろ、現代日本社会の構造が必然的に生み出した、ひとつの合理的な生存形態である。

学校は長らく、成功のモデルを一つしか提示してこなかった。
よく勉強し、偏差値を上げ、都市へ出て、企業に就職し、昇進と年収を重ねていく――その直線的な物語である。

しかし、その物語は、いつのまにか別の顔を持つようになった。
それは「終わりなき比較」と「自己責任化された不安」である。

都市部でサラリーマンとして生きるということは、常に見えないランキングの中に置かれるということだ。
年収、役職、スキル、評価、SNS上の生活水準。
どれもがアルゴリズムによって数値化され、他者と並べられ、優劣をつけられる。

そこでは幸福は、絶対的な充足ではなく、相対的な位置で測られる。
昨日より上にいるか、同世代より勝っているか。
その問いから逃れることは、ほとんど許されない。

一方、地元に残った人たちはどうだろうか。

彼らの多くは、早い段階でその競争から降りている。
ある者は勉強が得意ではなかった。
ある者は学校に馴染めなかった。
ある者は、そもそも「勝ちたい」と思わなかった。

だが、彼らは社会から脱落したわけではない。
彼らは、別の場所に着地したのである。

地元での仕事は、必ずしも高収入ではない。
だが、生活は回っている。
顔見知りが多く、困ったときに声をかけられる相手がいる。
人間関係は評価制度によって切断されず、成果によって更新されない。

ここでは、承認は「役に立ったか」ではなく、「そこにいるか」によって与えられる。
この差は、想像以上に大きい。

都市型の人生では、失敗は致命傷になりやすい。
転職の空白、評価の低下、キャリアの中断。
それらはすべて、個人の責任として背負わされる。

だが地元では、失敗は物語の一部であり、笑い話であり、やり直しの前提だ。
失敗しても、人生から追放されない。
この感覚こそが、人を精神的に安定させる。

重要なのは、これが「怠惰」や「諦め」ではないという点である。

これは、競争社会のルールを正確に読み取ったうえでの、意識的な撤退なのだ。
勝ち続けなければ存在を認められないゲームから、最初から距離を取る。
それは敗北ではなく、消耗を拒否するという選択である。

学校教育は、この選択を長らく「失敗」と呼んできた。
地元志向は敗北、都市進出は成功。
その単純な図式のもとで、無数の子どもたちが自分を劣った存在だと信じ込まされてきた。

だが、現実はすでにそれを裏切っている。
勝ち組とされた人々が疲弊し、
負け組と呼ばれた人々が穏やかに暮らしている。

これは価値の逆転ではない。
もともと、幸福は競争の外側にあったのだ。

「戦わない子どもたち」が増えている。
それは教育の失敗ではない。
社会の構造を、身体感覚で理解した結果である。

彼らは知っている。
このゲームは、勝っても終わらない。
だから最初から、別のルールを選んだ。

地元志向の人生とは、
アルゴリズムに回収されない幸福の、最後の砦なのかもしれない。

そしてそれは、
これからの教育が真剣に向き合わなければならない、
もっとも重要な問いのひとつなのである。
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