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戦わない/競争しない子どもたち



最近、学校で子どもたちを見ていると、彼らが「負けている」のではないことに気づく。

彼らは、戦っていないだけだ。

声を荒らげない。順位にこだわらない。トップを目指す理由を、あまり持たない。

かつてなら、「覇気がない」「向上心がない」と呼ばれていた振る舞いだ。

だが、彼らは何も考えていないわけではない。むしろ逆で、考えすぎるほど考えた末に、戦わない場所を選んでいるようにも見える。

少子化が進み、大学は余り、仕事は足りず、終身雇用は信じるに値しない。

この社会の地図を、子どもたちは驚くほど正確に読み取っている。

だから彼らは、「勝ちに行く」よりも、「確実に消耗しない」道を選ぶ。

大学受験指定校推薦への傾倒も、その一つの表れだろう。

試験という戦場に立つより、静かに通過できる回廊を選ぶ。それは逃避ではなく、合理的な判断だ。

この状況を見て、大人は二つの極端な反応を示す。

一つは「今の若者は健全だ」「競争社会を超えた存在だ」という称賛。

もう一つは、「打たれ弱い」「社会に出たら通用しない」という否定。

どちらも、少し雑だ。

競争しないこと自体は、悪ではない。

勝ち負けのルールが、すでに破綻しているなら、参加しないという選択は、むしろ賢明だ。

問題は、戦わないことそのものではない。

戦わない理由を、自分の言葉で持っているかどうかだ。

社会に出れば、競争を避けても、衝突は避けられない。

理不尽な評価。説明のない判断。不利な配置。

それらは、戦わなくても、向こうからやってくる。

そのとき必要なのは、勝つ力ではない。

なぜ自分はここに立たされたのか。なぜ退くのか。どこまで耐え、どこで降りるのか

それを言葉にする力だ。

指定校推薦は、競争を回避する制度のようでいて、実は別種の競争を内包している。

評価基準は見えない。選ばれなかった理由は説明されない。一度外れれば、やり直しはきかない。

競争を避けたつもりで、より不透明な選別に身を委ねている。

これは、健全とは言いにくい。

だから、「戦わない子どもたち」を無条件に肯定することはできない。

同時に、否定する理由も、もはや存在しない。

問うべきなのは、ただ一つだ。

その「戦わない」は、思考の結果か。それとも、思考を放棄した結果か。

健全な「戦わない」は、選択を伴う。

戦うこともできる。だが、あえて戦わない。別の価値軸を持っている。

撤退を、自分の責任として引き受けている。

それは、弱さではない。倫理だ。

危うい「戦わない」は、選択を伴わない。

目立たないため。怒られないため。評価を預けるため。

そこには、判断がない。言葉もない。

それは、戦っていないのではなく、すでに戦場から外されている状態だ。

先生は、子どもを戦わせる必要はない。

だが、戦わないことを、無言のまま通過させてはいけない。

戦う/戦わない。進む/退く。その境目を、一緒に考える。

それが、これからの教育に残された、数少ない仕事だ。

戦わない子どもたちは、時代の最先端を走っているのかもしれない。

だが、先端にいる者ほど、足元は不安定だ。

だからこそ、問いを置いておく。

あなたは、なぜ、戦わないのか。

その問いに耐えられる限り、彼らはきっと、壊れない。
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