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不登校を包摂する土壌



少子化は、いつの間にか、教室の空気までも変えてしまったらしい。

かつて数十人が一斉に騒ぎ、歩き、泣き、怒り、勝手気ままに「生きていた」教室は、今や一枚の薄いフィルムに覆われたように静かである。

廊下を歩いても、妙に音がしない。
気づけば、学校という場所が、息を潜めた水族館のように感じられることがある。

だが、その静けさを“教育の成果”と呼ぶには、どこか後ろめたさが残る。

静まったのではない。
静められてしまったのだ。

大人の数は減らず、子どもの数だけが目減りしていく。
かつてならば雑踏の中に紛れ、多少の逸脱など風に流されていった子どもたちは、いま、スポットライトの下にぽつんと立たされている。

「見られている」という圧力は、子どもを劇的に従順へと導く。

教室の秩序は、大人たちの“完全なる管理体制”の成果として、静かに完成を迎えようとしている。
しかし、静けさと平穏とは、似て非なるものだ。

静けさは、息苦しさの裏返しでもある。

ここ数年、不登校の増加はもはや統計上の“傾向”ではなく、学校の日常そのものになった。
子どもたちは荒れない代わりに、動かなくなった。
破れた教科書も、投げられた椅子もない。

その代わり、沈黙と無気力だけが、ひっそりと机の間に沈んでいる。

もちろん教育現場は、その原因を“個別の事情”として丁寧に書類へと落とし込む。
家庭環境、発達特性、体調不良——どれも正しい。

だが、本当にそうだろうか。
静寂そのものが、子どもたちの生きづらさの源泉になってはいないか。

そんな折、大阪の学校を訪れる機会があった。
教室の扉を開けた瞬間、風景がまるで違うことに気づく。
ざわざわ、という音が空気の表面を掻いている。
笑い声が混じり、誰かが立ったままノートを書き、別の子が教員に突然話しかけている。

教員もまた、その波を押し返すのではなく、ゆるやかに受け止め、時に押し戻し、また流される。
ここでは、支援級へ「排出」される子は少ない。

ごちゃまぜが前提なのだ。

属性や特性を理由に分けるのではなく、混ざり合ったままの状態を成立させることが、学校という制度の側の責任として引き受けられている。
「混ざり合い」の中には気力が枯渇しかけている子も当然にいる。そんな子らは・・・、例えばしばらくの間は放っておく。そう、混沌からキョリをおいて放っておいてもらうことも必要な子だっている。

もちろん、混ざれば混ざるほど指導は難しい。

だが、この“難しさ”こそが、子どもにとっての救いとなる。
なぜなら、混沌には余白があり、余白には逃げ道があるからだ。

均質な教室は、少しのミスも見逃さない。
だが、不均質な教室は、子どもの「できなさ」や「不器用さ」を、ざるの目のように受け流す。

誰かが騒ぐから、誰かが救われる。
誰かが飽きるから、誰かが息を継げる。

ごちゃまぜとは、子ども同士が互いの“緩衝材”になる仕組みなのだ。

大阪の教室を眺めていると、管理によって保たれた静けさとはまったく別の種類の“平穏”が立ち上がってくる。

それは、規律から生まれた平穏ではなく、揺らぎを許した場所にしか宿らない、野生の平穏だ。

私は、子どもが救われるのは、整いすぎた教室ではないと思っている。
あまりに整えられた空間は、人を従順にする代わりに、生を細らせてしまう。

救いとは、もっと粗く、混ざり合い、予測不可能で、どこか手に負えないものの中から立ち上がってくる。

大阪の「インクルーシブ教育」は、その“手に負えなさ”を学校が引き受けるという、奇跡的な文化の上に成立している。

よって不登校児童・生徒も、インクルーシブ的包摂の中で「特別なことではない」と認知される。
予測不可能で、どこか手に負えない現象のひとつとして「それでもいい」と承認されるのだ。

大阪の『ごちゃまぜ』は、「混ざってなんぼ」といった捨て身の精神性と歴史の延長線上に誕生した。まさに混沌の極みを生きる術を彼らは体得するのである。

そして私は改めて思う。・・・子どもは、管理ではなく「混沌」によって呼吸を取り戻す生き物なのだ、と。

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