ボクが考える「これからの教師像」

学校というものを語るとき、ボクたちはどうしても「教育」という言葉を先頭に置いてしまう。しかし、いま目の前に広がっている学校は、もはや教育という肩書きだけでは収まらない。
ある日は福祉の現場で、ある日は心理支援の場で、ある日は家族の代理を務め、またある日は、社会が取りこぼしたあらゆるものを受け止める、巨大な「受け皿」として存在している。
職員室の隅で泣いていた若い女性教員の姿を、ボクは忘れられない。
机には授業準備の資料よりも、家庭支援のメモやケース会議の議事録の束のほうが圧倒的に高く積まれていた。その厚みが、教員の負担そのものの比喩に見えた。
彼女は、教育よりも支援の方に時間を奪われていたが、それを誰に訴えることもできず、ただ「やらなければいけないこと」として抱え続けていたのだ。
この光景を、個人の弱さとして片づけるのは容易い。しかし、それをしてしまえば、学校が抱えている構造的な疲弊を見落とすことになる。教員という存在に、社会が無反省のまま「あらゆる善意」を重ねてきた。
その重なりの末に、かつては一本の道であった教員の仕事が、いくつもの枝道へと引き裂かれてしまったのだ。
だから必要なのは、教員にさらなる努力を求めることではないし、教育と福祉を雑に切り離すことでもない。
教員とは何者か?
という問いを、ボクたち自身がもう一度、時間をかけて編み直すことなのだ。
教員は教える専門家である・・・それは半分だけ正しい。
しかし現実には、授業だけに集中できる教員など、ほとんど存在しない。教室には、家庭の綻びからこぼれてきた不安や、友人関係の断絶が落とす影が、当たり前のように漂っている。
子どもたちは、学びだけを抱えて登校しているわけではない。しばしば彼らは、生きづらさという名の石ころをポケットいっぱいに詰め込みながら、教室に座っている。
こうした子どもに向き合うとき、旧来の「教育的専門性」は頼りなく揺れる。
学習指導法やカリキュラム論は、もちろん大切だ。しかし、それだけで子どもの「現在地」に触れることはできない。
そこで必要になるのが、「福祉的経験を持つ教員」という新しい像である。
これは、単に社会福祉を学んだという意味ではない。人の痛みを、現場で、皮膚感覚で、理解した経験。
他者の違いに触れ、迷い、戸惑い、そして学び直した経験。
その経験を通して、世界が少し複雑に見えてしまった人・・・そうした人こそが、子どもの複雑さに対して誠実に立ち会える。
教えるとは「知識を渡す」行為ではなく、相手の人生を、一時的にでも引き受ける行為だからだ。
教育と福祉を分けようとする議論は、これまでもくり返されてきた。それは制度としては正しい。しかし、子どもという存在は、教育の側に半分、福祉の側に半分ときれいに分割できるものではない。
むしろ学校とは、教育と福祉が自然に溶け合っていることで、「子どもの生活」そのものを支える場所になっている。
だから必要なのは、「教育 × 福祉 × 組織」という三層構造を持つ教員像であり、学校像である。
一本脚の椅子は倒れやすい。二本脚でも不安定だ。だが三本脚になった椅子は、ぐらつきながらも倒れにくい。教員を三本脚で支えるとは、そういうことだ。
教職課程は、もう一度根元から組み替えられるべきだ。
教室の外で世界と接触することが、教員の専門性そのものを豊かにする。現行の教職課程では「実習」が教育実習一択になっているが、むしろ福祉実習、地域実習、居場所支援など、多様な現場を先に経験することこそが、教員の基礎をつくる。
「教える前に、人に触れること」、この順番が、実は大切なのだ。
教員免許は、本来「どれだけ受け止められる人になったか」を示す証明書になるべきだ。
そして受け止める力とは、知識でなく、経験の積み重ねによってしか獲得できない。
「福祉的素養を持つ人材に教員を入れ替えればいい」という意見は、魅力的ではある。しかし、それは学校を「完成品の人間を並べる場所」として捉える危険性を孕む。
本来、学校とは、人が育つ場所だ。それは子どもだけではなく、教員もまた同じである。
教員は、未完成のままでよい。未完成のまま、子どもとともに学び続けられる人こそ、学校にふさわしい。
だから必要なのは、優れた資質を持つ人材を「最初から連れてくる」ことではなく、現場の中で教員自身が福祉的経験を積み、成長していける構造を整えることである。
教員が変わっていける学校に作り直す。その方が、子どもにとっても、学校にとっても健全だ。
社会のざわつきは、まず学校に現れるという。
家庭の変化、地域の衰退、孤立、貧困、価値観の衝突――これらすべてが学校で可視化される。
だから学校は、社会の不具合を押しつけられる場でありながら、同時に社会の未来を試みる場でもある。
そこでの実践は、必ず次の世代へと戻ってゆく。
この循環を支える教員とは、子どもを「世界の縮図」として読み取れる人である。
そのためには、学校の中心に据え直すべきは、教育方法論でも制度論でもなく、「人間という存在に対する理解」
なのであると思う。
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