ブログ

HOME//ブログ//公務員として完成した教師

ブログ

公務員として完成した教師

 教師という職業には、ある種の「未完成さ」が必要である。
 
 

 未完成とは、未熟や怠慢を意味するのではない。それは、変化しつづける生命への応答として、つねに揺れながら立ちつづける態度のことである。教育の現場には、理屈を超えた矛盾や偶然が満ちている。だからこそ教師は、答えの定まらぬ世界に身を晒しながら、子どもたちの曖昧な声を受け止めねばならない。だが近年、この「揺れ」そのものが職務上のリスクとみなされるようになった。学校における教師の人格は、教育者としてではなく、公務員としての完成を求められている。

 公務員として完成しているとは、法令に忠実で、文書を正確に作成し、組織の秩序を乱さず、上司や行政と円滑に連携できるという意味である。制度運営の側から見れば、それは理想的な人材だ。だが教育の場は行政の延長線上にはない。そこにいるのは、まだ制度に適応していない子どもたちであり、秩序よりも自由、効率よりも関係を生きる人間たちである。教育とは、その未完成な世界に一瞬でも寄り添う行為であり、行政の論理では測りきれぬ時間を生きることでもある。

 ところが、公務員として完成した教師は、制度の安定を守ることに全力を注ぐ。子どもに向かう前に、まず「報告」を考える。授業の意図よりも、授業の記録が重んじられる。会議資料の整合性が、教育的問いを上回る。教師が子どもを見るのではなく、学校が教師を監視する。こうして教育は、少しずつ「生きた関係」から「制度的処理」へと変質していく。

 教育において「間違い」は欠かせない。間違いの中でこそ、子どもも教師も、何かを学びなおす。しかし公務員的完成は、間違いを排除する構造の中に成立している。間違えない授業、波風の立たない学級経営、問題の起きない進路指導。それらは見かけ上の成功を保証するが、教育の呼吸を奪う。教育とは、人間の成長を支える営みであると同時に、失敗の意味を問い直す実践でもある。失敗のない教育は、もはや教育ではない。

 教師が制度に適応しすぎると、次第に人間的な感受性が痩せていく。子どもの小さな違和感を見逃し、形式的な報告で安心する。制度の内側に安全に収まるほど、教育の外部――つまり「世界への応答力」――は鈍くなる。公務員として完成するということは、同時に「制度の外に出る勇気」を失うということでもある。教育は、制度の中で働きながら、その制度の限界を見抜く行為である。ゆえに、教師が制度そのものに完全に同化してしまうとき、教育はその根を失う。

 教師の質が低下しているという指摘が繰り返される。しかし、それは能力の低下ではなく、「人間としての未完成さ」を失ったことによる貧しさなのではないか。教育が管理と評価の網の目に包まれ、公務員的完成が美徳とされるとき、教師は「間違わない存在」として完成するが、「人間としての教育者」としては死んでいく。教室の静けさは秩序の証であると同時に、教育の沈黙の証でもある。

 制度の正しさと、人間の正しさは、必ずしも一致しない。教育とは、そのずれを引き受ける行為である。したがって、教師は完全であってはならない。未完成のまま、矛盾を抱え、揺れながら、子どもの前に立ち続けるべきなのだ。教育の生命は、制度的完成の外にしか息づかない。教師が「公務員として完成すること」によって、教育の内部からその生命を失う――それこそが、現代の学校が抱える静かな危機である。
SHARE
シェアする
[addtoany]

ブログ一覧