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教員の正体(2)


学校は、とりわけ高校にもなると、それ自体が一つの小さな社会になっている。

この小社会で生徒は様々な疑似体験をし、社会人にふさわしい人格とコミュニケーション能力を身につける。

だから学校には世の中に存在するあらゆる類の人々がいていい。

世間には聖人君主ばかりがいるわけではないから、何も教員だからといって、そして「聖職」だからといって、大上段に構えて聖人ぶる必要はない(あっ、これは中学・高校での話です)。

普段の自分自身を小社会に投影する。

ただ、少しだけ「教員」であるからこその演出は必要だろう。

自らのキャラクターを丸ごと受け止めてくれるほどに生徒はまだ育ってないのだから、教員は自己を少しだけ演出して、学校という擬似社会との折り合いをつけなければならないのだ。
 
つまり学校は、老若男女、既婚者や未婚者の集合体でいい。

既婚者とて、みんなが子持ちである必要はなく、「子どもなんていらない!」という人々が教員として存在してもまったく問題はないのだ。

反社会的な勢力はマズイだろうが、常識的な範囲で政治的ポリシーをもつことも当然に必要だろう。

だから、あからさまな「右」や「左」は困るが、「なんとなく保守」や「それとなくリベラル」な人々の合意によって運営されている学校であるならば、それは生徒にとってはもっとも理想的な環境であるといえる。

しかし、ここに完全に見落としがちな事実がある。

様々な人々の集合体としての学校と言ったが、唯一、教員を形成するその属性には、ほぼ全員に共通する要素がある。

それは「学校が好き」という前提だ。

結局、学校が好きだったところの人々が、職業として教員を選ぶのである。

もしも「学校なんか嫌い」という人が、例えば学校への復讐の意味で教員になったというのであれば、それは冗談を越えて、完全にホラーだ。

だから、学校に働く人々に「学校嫌い」は物理的に存在しない。

そしてこれってとても重要な前提だ。

だって「学校が好き」だった人々が、学校に何らネガティブな感情をもたないで、日々生徒と対峙しているのだから…。

「学校が嫌い」な生徒の感情に近づけますか…、ってことだ。 

どのみち子どもの頃から、学校や教員と上手くやってこられた人々が、現実として学校や教員と上手く馴染めない生徒の情景を想像するなんてことはできない。

2000年代に入った頃、「スクールカースト」という概念に出会った。

なるほど学校にもそれなりに「カースト」=階級が存在するんだな…と、その時はそういった現象にいち早く気づき社会問題化していた学者先生に感心したものである、このスクールカーストの常に上位層にいた人々が、間違いなく教員を目指す。

学校は「居心地のいい場所」なのだから、職業としてはもってこいなのだ。

ちなみにボクの感覚では、スクールカーストの最上位層、つまり真に学校やクラスを仕切っていた人々は教員にはならない。

彼ら彼女らは、そんなステージでは飽き足らないのだろう。

「学校」などというところは、ノスタルジーを満たす場所以外の何ものでもないと心得ることで、文字通り「学校」から「卒業」しているところの人々、それが最上位の人々だと思うのだ。

それになんと言っても、スクールカースト最上位の人々は扱いにくい。

自己主張も強いだろうし、自我そのものが強靭だ。

だから最上位でい続けることができたのだろうが、そういった強すぎる「個」は、教員の世界には実は馴染まない。

だから最上位を除いた上位層が教員の主流になる。

そして、もはや隠しようもない事実が炙り出される。

つまり、この上位層の人々って、やっぱり同じ上位層の人々(=生徒)が好きなんだな…ってことだ。

ウマが合うんだな。
 
ならばスクールカーストの下位層、それにそもそもカースト外の人々(=生徒)ってどうしたらいいのだろうか。

なんか「救いようがない」状態のような気がするが…。

結論…。

学校には「学校と相性のいい人々」だけが存在するのではない。

まずはそれを認識しよう。

そして少しは「学校と相性のよくない人々」の世界を想像してほしいのだ。
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