教員の正体(1)
多種多様な人材(教職員)が集まって「学校」が運営されていると考えている人も多いだろう。
だが実態はそうなってはいない。
この20年で学校(特に公立学校)に勤務する教員は、ほぼ画一化されたと思っている。
根拠がなくてそう言っているのではない。
たんと根拠はある。
ボクの前職はある大学の附属高校であった。
大学のキャンパスの中に併設された高校だ。
そこで非常勤講師を5年やった。
非常勤なんだから、決められた授業時間以外は「暇」なわけである。
で、暇なボクは大学のキャンパス内を「探検」にまわった。
大学生に混じって…、とはいかないが、こっそりと様々な大学の講義を聴いてまわっていた。
その中に教職課程の講義もあった。
大講義室に100名を越えると思われる大学生が教職を学んでいた。
決して「おもしろい」と思えるような講義ではない。
要は、どうしたら教員になれるかっていう話しだ。
基本的な学力や教養はもちろんのこととして、大学の教職指導教官が放った言葉の中で、ボクの特に印象に残ったフレーズ…、
それは「教育委員会に気にいってもらえる人間になる」というものであった。
それを言ったら身も蓋もない。
公立の教員採用試験は、各自治体の教育委員会が主催する。
そこの人々に「気にいられるような人間になれ」ということを指導教官は何の恥ずかしげもなく大学生に述べていたのである。
ボクは瞬時に嫌気がさして教室を離れようとした。
すると教室の外に「教職を目指す君へ」というコーナーが設置されていることに気づいた。
そこには教員採用試験の過去問や傾向と対策集が自治体毎に並べられていた。
「えっ…」と思ったのは、そのコーナーに並んでいた、ある講習会のリーフレットだった。
「〇〇市教員採用事前講習会」「〇〇区教員採用試験春期講習会」などという、自治体が主催する教員採用試験に合格するための講習会の案内が10種類以上も並んでいたのだ。
ボクは思わず携帯を取り出し、その中のひとつの自治体(教育委員会)に電話をした。
「こういった講習会を受けないと採用試験には合格しないのですか?」を確認するためだ。
「決してそんなことはありません」と担当者は言う。
当たり前だ。
何事も「機会均等」を旨とする役所なのだから、口が裂けても差別的な発言をするワケがない。
そこでボクは、後日、知り合いの教員に電話をした。
彼は、今、公立中学の管理職(教頭)をやっている。
教育委員会に一定期間在籍したことのある人物だ。
で、件の質問をしてみた。
彼の回答はこうだ。
「特定の講習会を受けたからといって、それが採用の合否に関わることはない」
「けれども確かに『講習を受けた』という事実は安心材料ではありますね」
この回答には翻訳が必要だ。
ある教員採用希望者が「講習を受けた」ということは、採用する側の教育委員会にとっては安心材料となる…、そういった意味である。
教育委員会にとっては、どこぞの誰とも分からない、つまりは思想的・信条的に不特定な人物を採用すること自体がリスクとなる。
と言って、憲法が保障する「思想・良心の自由」を侵害するワケにはいかない。
だから採用試験には2次試験(面接)がある。
「思想をチェックする」ための面接ではない。
そんなことは絶対に言えない。
認めない。
でも面接はある。
そして、1次試験(筆記)で満点をとっても、面接で落とされることもある。
不採用の理由は公表されない。
これが現実である。
かつて(20年以上前まで)は、教育委員会は辛酸を舐め続けてきた。
自分たち組織の「意にそぐわない教員」が大量に採用されていたからである。
だから学校では管理職の言うことをまるできかない教員が跋扈した。
そんな不遇な状況を、教育委員会は20年かけて改善し、言うことをきかない教員を粛々とクリーニングしてきた。
そして、今、やっと管理職を中心とする学校組織が機能している。
だがこの状態が、学校で教育を受ける子どもたちにとって「善」とは限らない。
教員の質が画一化されてしまったからだ。
そんなことはない。
それは単にお前の妄想だ…、という人々もいるだろう。
しかしボクは現実に教育委員会によって「飼い慣らされた」状態で教員に採用された人物を知っている。
彼は事前講習を受けて、それなりに採用試験のための勉強もした。
面接も和やかな雰囲気だった。
でも不採用となった。
一次試験の成績がふるわなかったからであると、後から内密に教えられたという。
ところが彼は、その後教育委員会の臨時職員(パート)に採用された。
1年間の雑務の傍ら、教育委員会に所属する様々な方々(教員)から、翌年の教員採用試験のための指導(レクチャー)を受けた。
で、翌年の採用試験には見事合格した…、というストーリーである。
教育委員会からすれば、教員になりたい人物を十分に教育委員会の色に染め上げた状態で採用したということになる。
実は、この手の話し、つまり臨時職員を経て教員採用に至るということは、今や常態化している。
臨時職員である内に「見極める」ためである。
管理職の言うこともきかない…、マニュアルにも従わない…、そんなトンデモ教員を採用しないようにするには、そのくらいの「しくみ」が必要なのであろう。
が、しかし、そして、だから教員の質は画一化されたのである。
その学校が「多様性」を重んじ、それを子どもたちに礼賛している。
もはやコントである。
最後に、件の大学教職課程の指導教官は、こうも言っていた。
「塾講(塾の講師)をアルバイトでやってると採用される可能性が上がるよ」と。
塾講こそマニュアル学習指導の権化である。
マニュアルから逸脱すると塾講はクビになる。
どんなに子どもたちから慕われていようがクビになる。
「同じことをやってない」は、「同じことができない」に変換されて、彼らを教員(講師)としては「不適切」であると判定するのである。
よってより「オリジナル」を志向する「オリジナルな人材」は、塾からも、そして学校からもあっさりと去っていく。
そうやって淘汰されたところの人材が、今、学校という地域のインフラになっているのである。
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