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続、私的な女性社会進出論

前回の記事「私的な女性社会進出論」の続編になりますが、現行の政府が女性を社会に進出させようとする、その狙いは、ピンポイントに「日本のGDP」を向上させることにあります。

女性を初めとする日本国民の家庭の幸せを向上させる…、のではなく、ただ「GDP」を向上させたい…、とする世界に対して日本国の見栄を張りたいだけなのです。

だからその思惑にホイホイ乗せられて、闇雲に社会に進出する女性を「善」、そうでない女性を「悪」と見做すのは、決して正しい判断であるとはいえません。

そもそもGDPを押し上げたいのであれば、そんなもん、簡単にできちゃいます。

今、家庭でお母さんが必死になって取り組んでいる子育てを初めとする「家事」…、これを市場に還元すればいいのです。

つまり理論上はあなたの家事労働を隣の家の家事労働に置き換えて、そんでもって隣の家からその労働に見合った報酬をいただく…、それを全家庭のお母さんが同時に行えば、一気にあなたの家事労働は付加価値とみなされGDPに計上されるでしょう。

実際は隣の家事労働なんて行わなくても、そういった取引をみんなで「やったこと」にするだけで、その労働は市場を経由しますから、GDPはそれを勘定に入れるんです。

そしてGDPなんてそんなものです。

他の国と比べて、それ(GDP)が高いとか低いとか、そんなことで国の発展具合を計ろうなんて発想がそもそもチープな発想なんですね。

まさに政権を担当している人々による「国家の見栄」以外の何物でもありません。

女性をGDPを嵩上げする道具としてみてはいけません。

特に女性を生産性の観点からしかみない社会は、想像すればわかるでしょうが、資本主義にのみ価値の基準を求めるところの経済偏重社会です。

社会とは、経済面だけでその良し悪しを計ることはできませんね。

文化的資本や社会的資本も十分に考慮したところの「社会的豊かさ」をもって、社会の良し悪しは判断されるべきでしょう。

仮にもし、高学歴な女性が、その能力をビジネス社会に還元せず、彼女の意思で家庭にこもって家事労働を選択した場合、国は、彼女をビジネス市場に何が何でもかりだそうとするでしょう。

彼女の能力がもったいない…、と国が判断するからです。

しかしそれは、とんだお門違いです。

お節介にもほどがある…、と言ってもいいです。

彼女の高学歴は、何もビジネス社会に還元されなくても、例えば「子育て」というとてつもなく崇高な営みにしっかりと昇華されます。

子どもは、高学歴な母の知的水準と教養を余すことなく受け継ぎ、その能力を次の世代に伝えるのです。

そしてそれが文化的資本となる。

その文化的資本が重層的に積み重なったところの社会を、私たちは真に「豊かな社会」と見做すのです。

それに母が子どもに伝えるもうひとつの資本があります。

それは母が有する、高学歴であるからこそ有することが可能な人的ネットワークです。

類は友を呼ぶ…と言われるように、母に集う人々は、それだけで豊かな教養と人間性を持っている可能性がある…、その人的ネットワークの中で、己が子を育てた場合に、それは十分に子どもにとっての社会的資本になり得るのです。

この文化的資本と社会的資本を母が家庭を通じて時代につなげた時、この国には決してGDPでは計ることのできない豊かなる社会が実現します。

国力の概念を経済的な進歩にばかりに求めようとする国は、未だ国家としては発展途上であると言わざるをえませんね。

国は今、見栄で(?)GDP600兆円を目指しているようです。

過去20年間のGDP平均額が500兆円ですから、それを20%も上乗せしたいんだそうです。

でもそれで国民の何が変わるのでしょうか。

私たちの生活は何も変わりません。

いや、一部特権階級と大金持ちの今後は安泰するでしょう。

特権階級と大金持ちにとっては、それこそ「国が経済的に成長する」ことが彼らのステータスの前提ですから、どんな手を使っても国には経済成長し続けてもらいたいんです。

しかし経済格差の「中から下」にいる私たちには関係はありません。

改めて考えた場合、今の日本社会が女性を社会進出させたがっているのは、世界的にみて日本人女性の社会的進出が遅れているとする「周囲の声」に敏感に反応していること、つまり世間的に「みっともない」とする見栄…、それに現在の日本の経済界が慢性的に抱えている人手不足の問題…、それがあります。

女性が社会に進出してない…、とする世界の指摘は、この際、無視しましょう。

そんなもん、どうだっていいからです。

所詮、資本主義という単に一面からみた評価に一喜一憂する必要はないんです。

「みっともない」ですか? 

それも資本主義的にみた場合の「みっともない」ですよね。

日本は、女性に資本主義を支えるための役割だけを与えている国ではない…、日本人女性にはもっと男性にはできない「社会を豊かに育む」使命があって、それを日々果たしているんだ…、という説得力をもった理屈で世界に説明すればいいんです。

労働力の不足ですか? 

それは、ハッキリ言って…、労働移民で補うしかありません。

移民で日本の伝統的文化が損なわれる…、ですか? 

これにも国による経済政策に対する哲学が必要です。

哲学もなにもなく、ただ経済効率と労働生産性だけを考えているならば、アメリカやイギリスのように移民労働者が、国の文化を塗り替えてしまうでしょう。

しかし経済政策に哲学があって、国の文化と経済的成長の両輪を守っていこうとすれば、十分に文化は担保されるはずです。

要は目先の利益ばかりにとらわれず、長期的な視点にたってこの国の「あり方」を考えればいいんです。

女性には(私は決してフェミニストではありませんよ)、限りない可能性がありあます。

しかしその可能性を資本主義にのみ求めてはいけません。

彼女らの「母性」が、今、もっと市民権を獲得して、例えば「子育てのみをする」、「家事のみをする」ところの女性が、決して肩身の狭い状況に埋没しない状況を作り上げることが最重要です。

ブログの世界には、それこそ高学歴であると思われる女性が、子育てをしながら、それでもそんな自分を必死になって世間とつなげていたい、そのために記事を発信する…、そんな人々が多く見受けられます。

彼女らは不安なのです。資本主義の中では「忘れられてしまう」かもしれない自身の微妙なポジションが不安でならない…。


そんな彼女らが、自信をもって「只今、子育て中!それがナニか?」を宣言できる、そんな包摂的な社会の誕生を私は望む者であります。
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