私的な女性社会進出論
日本人女性の社会進出がOECD加盟国(自分の国が先進国であると自覚している国の団体)の中では遅れている、特に先進主要国の中にあっては断トツの最下位である…、というランキングに政治も社会も振り回されているような気がします。
でも、それの何がいけないのでしょうか?
日本人女性の社会進出が遅れていることは私たちが日々身を置いている職場の環境を振り返った時、なんとなくそんな現象を肌で感じることはできます。
例外的に学校、とりわけ小学校は女性教員が全体の6割以上を占めているようですから、小学校は、そしてその前段階の教育機関である幼稚園、それに保育機関としての保育園は、女性の社会進出の最先端を突き進んでいると考えてもいいでしょう。
でも保育園や幼稚園、それに小学校の先生に女性が多いのは当たり前ですよね。
理屈ではなく、子どもが母親からの庇護を離れた最初の受け皿として、母性が欠かせない、つまり受け皿の側で母性を十分に担保することは、これはもう生物学的な領域から考えても妥当性があります。
親の方としても、保育園や幼稚園、そして小学校の低学年に女性(=母性)が配属されていることに、これも理屈ではなく根源的な安心感を抱くのです。
企業に勤めてそれなりのキャリアを積んだ女性が結婚して出産した…、その彼女らの心象を少しだけ想像してみましょう。
満員電車に揺られて己のプライベートの相当部分を犠牲にしてまでして会社に貢献し、そのキャリアに見合った評価を会社から得ようとすることで自身の存在意義と社会的使命を感じようとする動機そのものは、男性も女性も変わらないでしょう。
ところが結婚をして子どもを授かった瞬間から、女性の体、そして脳内にはなにか特別な電流のようなものが流れます(きっと)。
男性には感じることができないその電流は、場合によっては、そして大げさに例えるならば「神の啓示」のようなものです(きっと)。
そしてそういった啓示を受けた女性は、たぶん社会の中における自身の立ち位置、存在意義について改めて考え直さねばならない機会に遭遇するのです(きっと)。
自身と社会を結んでいた、その紐の結び目の中に「子ども」が介在してきました。
そして「子ども」が彼女の精神性に占める割合が日に日に増していきます。
すると彼女はある違和感を覚えるのです。それまで疑問にしなかった自身と社会との関係性に対する違和感、つまり自分があまりにも盲目的に社会の、そして企業の、さらには資本主義の従属者でしかなかったとするそれまでの価値観に対する違和感です。
「私の使命は…、ナニ?」とする疑問が彼女のアイデンティティーを強烈に揺さぶるのです。
会社に自身をアジャストさせ、その「上がり」(=給料)で生活を支える、つまり資本主義の中に自身の幸福を見出す…、そんな当たり前の価値観がグラつくのです。
我が子を産んだ、そして日々、社会の流れとは全く違ったところでその乳飲み子を育てていくうちに、人間の根源的な欲求、根源的な幸せの方向性を彼女は子どもを通した目で見つめなおすのです(きっと)。
だから彼女にとっては、社会への復帰は、男性が思っているほど「当然のこと」ではなく、仮にもしも社会に復帰したとしても、時として自身の体と脳の指令には偽ったところの感情で「苦渋の決断」を伴うことだってあるんです。
そしてそこんところの機微がきっと男にはわからない…。
(私にだってわからないのですから、これは完全に推測にすぎませんが…)。
だから己の体と脳の指令に忠実に従ったところの女性(=母)は、かなりの確率で社会へ復帰するする道を閉ざすのです。
女性が社会復帰したくても働く環境が整ってない…、とする声も根強く存在しますね。
保育所環境にしても、産後の女性を迎え入れる企業環境にしても、確かに今の日本の環境は、女性にとっては理想的だとはいいません。
しかし…、ですよ。
女性にとって働きやすい環境は、案外簡単に構築できるのではないか、と思うのです。
前述した保育園、幼稚園、小学校の職場環境をモデルにすればいいんです。
特に小学校の女性教員を取り巻く環境は、おそらくはそこに勤務する女性教員の誰もが文句のつけようがない状態で機能しています。
女性教員を新規に採用した場合、その女性が結婚して子育てを終えるであろう時期に至るまで、手厚く彼女らのバックアップを保障します。
小学校の採用枠に「臨時的任用」が多いのはそのためなんです。
誰がいつでも出産し、育児に入っても、それを支えるための人的保障が完璧なんですね。
だから産休中の先生なんて、それこそゴロゴロいる…。
もちろんそれには公立学校ですから、それなりの税金が投入されています。
しかしそういった小学校のシステムに異論を唱える声はほとんどないでしょう。
であるならば、企業もそれに倣えばいい。
国は女性が働きやすいように公的資金を、そこ(人的保障制度)に投入すればいいんです。
しかしそういった動きはありませんね。
完全な形で社会保障を隅々にまで行きわたらせようとする気配がないのです。
だから企業に働く女性は察知します。
「これじゃ、ダメだ…」って。
このグロテスクな資本主義の社会から自身の子どもを守ることができるのは、「自分だけ」だって。
彼女には今までとは違った社会との繋がり方が見え始めていますから、今更「滅私奉公」でもないんです。
100%のエネルギーと感情で子どもを育てる…、そこに彼女は真の人間(=女性)としての使命を感じるのです。
そのような人類が忘れかけている独特の感性が、ここ日本という国では未だに廃れていない。
おそらく日本人の、それが一種の宗教性というか、民族性なんです…、きっと。
この国では社会がどんなに現代的に変革しても、その国民性の根源には神仏に対する「オソレ」が潜んでいるんです。
だからどんなヤンキーだって、いや、実はヤンキーこそ、通過儀礼を重要視しますね。
子どもが生まれて…、お宮参り…、からのお食い初め…、七五三…、成人式…、そして時々に通過する厄年のお祓い…、そういった前近代的な宗教性の中に、日本人は子どもの生活を委ねています。
だから…、母になった途端に女性の覚悟は、もう半端じゃなく備わってくる…。
この国に生を受けた人間のスピリチュアルを母が一心に担う…、そんな覚悟なのではないかと推測します。
結論です。
女性の社会進出ですか?
そんなものは、子どもを産んだ、その女性の感性に任せればいい。
そして男(=夫)はその感性に従った方がいい…、そういった決定権を女性が握っているんです。
社会が、本当の意味で女性に進出してもらいたいとする姿勢を示した時、母として「社会進出」を検討すればいい…、そう思います。
SHARE
シェアする
[addtoany] シェアする