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学校は「装置」である

ある教員(友人)が言ってた。
「教員と子どもたちの関係なんて、長い人生の内のホンの一瞬の出会いにしか過ぎない…」
「その一瞬の出会いの時に何ができるのかって考えたとき、何かの『面白い』を伝えることしかできないんじゃないかな…」と。
それは勉強でもいい、部活でもいい…、子どもたちが何かに夢中になれる、「面白い」と思える、そのきっかけを教員が与えることができた時、それだけで教員の使命の大半を果たしたことになるのかもしれない。
立派な社会人に仕立てる…、優秀な人材を育てる…、それも確かに教員の使命には違いない。
しかし、立派になる、優秀になるためには、誰にでも「面白い」と思って夢中になれる時間が必要だ。
「面白い」から夢中になれる…、夢中になっている時に人は様々なことを能動的に学ぶ。
その学びの蓄積が、人を立派にし優秀にするのではないだろうか。
ボクたちは、どこかで大きな勘違いをしているのかもしれない。
世の中の目には見えない枠組みの中に子どもたちを閉じ込めることが、彼らを大人にする近道であるかのような錯覚に捕らわれている…。
学校という装置を使って彼らを管理することに血眼になっている…。
そんな過去の自分(ボク)を思い出す。
管理してあげなければならない…、それによって子どもたちを世間の内に留めることができ…、そうやって子どもたちをひとかどの人間に育て上げる…。
その上で彼らは小さいながらも幸せな人生を掴むことができるのだ…、というロジックで子どもたちの管理を優先してきたのではないか。
少なくともボクはそうだった。
そしてそれが正義であるとも感じていた。
しかし、それは実に傲慢な考えである。
教員はいつしか学校という人間管理装置そのものを維持するためだけの存在になってしまったのではないか…、最近、ボクはそう思っている。
子どもたちは、学校という統制機関の中で、できるだけ大人しくさせられ、決してそこからはみ出さないように指導され、場合によっては洗脳される。
そうしてできあがった子どもたちの集団を確認して、教員は己が勤める学校の秩序が保たれていると安堵し、そして大人たちもそういった学校のあり方をずっと支持してきたのだ。
つまり今までの学校というものは、そこに働く教員のエネルギーを学校という機構(機関)の存在を守り抜くためだけに発揮させていたのである。
だから、そこに集う本当の主役たる子どもたちの可能性や個性の伸長にフォーカスを当ててきたものではない。
学校は「学校という組織」が、過去から受け継がれてきた遺産を決して毀損しない範囲で社会から緩やかに受け入れてもらえる…。
つまりは社会や地域、そしてそこに暮らす大人たちの顔色を伺いながら、その大人たちの機嫌を損ねない範囲で存在することを一義的に目指してきていたのだ。
よって学校の秩序からはみ出さない子どもたちというのは、その社会や地域、それにそこに暮らす大人たちの常識からはみ出さない子どもたちを言うのであり、そういった大人たちにとって都合のいい子どもたちを大量に輩出する責務が学校には課せられていたのである。
しかし今、社会は大人たちがノスタルジーを満たすにはあまりにも激烈に変わり続けている。
社会の新しいカタチに大人たちは、頭もココロもついていけずに、その子どもたちをどのように導いていったらいいのか…、途方にくれている。
古き良き時代の日本社会を声高に礼賛することはいけないことではないが、そういった大人たちのノスタルジックな思考が、学校という機構(機関)をガンジガラメに縛り付けてはいないだろうか。
学校は…、変わらなければならない…、しかし変われない…。
それが社会からの見えない圧力によってもたらされていることを学校に働く教職員はもっと自覚する必要がある。

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