「自我」が芽生えた子をもつ家庭。
中高生を抱えたかなり多くの家庭が
決して平和で円満な状況でないであろうことは十分に想像ができる。
家庭によどむ不穏な空気、一触即発の気配・・・。
彼らは・・・、そう、青年期に突入したのである。
自我の芽生えってヤツだ。
この「自我」というヤツは、確立してしまえば、それはそれで人間として安定する、つまり文字通り大人として完成する。
ところが、子どもたちの自我の芽生えから確立までの道のりが、実に厄介なのである。
そしてボクたち大人(特に親)は、心を広く、大きくして彼らのその道のりを見守らなければならない。
覚えているだろうか?
ボクたちにも、自身に芽生えた自我と格闘する、そんな時期があったことを・・・。
高校で教員を続けてきたということは、いつでも青年期の真っ只中で格闘する生徒を目の当たりにするということでもあった。
そして自身の青年期で経験した、あの得体の知れぬ苦悩や焦燥が、つねに体感として残り、生徒のそれと重ね合わせてしまう、それがある種の職業病的な遺産であるとボクたちは考えている。
だから世の中にいる大人たちの中では、比較的、彼ら中高生の言動に寛容でいられたりもするのかもしれない。
確認してみよう。
彼らは、芽生えた自我にとまどい、むしろそれをもてあましている状況なんだな。
世間の常識や親の道徳が、芽生えた自我に初めからフィットするとは限らない。
教師や親からの言葉に違和感をもち
モヤッとした感情を抱えたまま、何事もなく日常を送っているように見せているだけなのかもしれない。
見るもの、聞くものすべてに「?」がつきまとう、そんな不安定な精神状態に一番困惑しているのが、実は本人自身であったりもする。
さて、そんな彼らをボクたちはどんな「思い」で見守ればいいのだろうか。
気が付けば、反抗ばかりするようになった我が子に対して、親は何をもって対処したらいいのだろうか。
「うっせぇ~んだよ、クソババー!」・・・、
生まれて初めて罵られた母親は、そのやるせなさをどのように処理しろっていうのだろうか。
答えは簡単だ。
毅然としているしかない。
子どもの芽生え始めた自我に振り回されてはいけないのである。
「反抗」も「クソババー」も、子どもの社会(=親や大人)に対するアレルギー反応だと考えればいい。
何事にもうまくいかない自分に苛立ち、つい身近なものへ感情をぶつけてしまうのが一般的であり、健全な発育である・・・。
だから日常生活では「是々非々」を貫く・・・、
つまり「良いものは良い」、そして金輪際「ダメなものはダメ」・・・、これを貫くしかない。
それで大抵の場合は・・・、収まる。
事実、彼らは学校では滅多に反抗することはないし、「うっせぇ~んだよ」もない。
それは彼らが少なからず自分の感情(=自我)を抑制しているからであり・・・、
学校という社会とうまく折り合いをつけていかなければならないとする社会性も、彼らが同時に獲得している過程だからだ。
よって彼らのストレスは、余計に身近なものへと集約されてしまうのである。
しかし「毅然とする」ことは、実は大変なことだ。
親や私たち(=大人)が毅然としているということは、常に世の中の「壁」になっている、ということでもある。
彼らの最前線で世の中の「壁」になる・・・。
彼らにとって「壁」は、実に理不尽な障害となるだろう。
その「理不尽さ」を敢えてボクたちが設定することで、彼らの芽生えたての自我は強く鍛えられ、逞しくなっていくと信じてほしい。
だから「ダメなものはダメ!」。
こう言い続ける覚悟が必要だ。
しかし、時として大人は若者に対して傲慢にもなりやすい。
つまり私たち自身も、常に、そして密かに世間で言われているところの「常識」ってヤツを疑ってみる必要があると思うのだ。
特に「学校の常識」には、感度の鋭いアンテナを張って見極めた方がいい。
それほどに「学校の常識」は危ういからだ。
しかし、それとて時間と共に「社会の常識」と整合していく・・・、はずだ。
ところで・・・、
「反抗?」「クソババー?」
うちの子にはそういった「面倒なこと」は、ないんだけど・・・。
といった家庭もあるだろう。
というか、そんな家庭が増えているという。
家庭が「平和」なら・・・、まぁ~、それでもいい。
だが、それはそれで「困ったこと」なんだってこと・・・、
いずれわかると思う。
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