「普通」と「フツー」
「フツーでいいんです」
「ん?」
「フツーに大学行って、フツーに就職して・・・」
「普通でいいの?」
「えぇ、フツーがいいんです」
高校生の言う「フツー」と、教員である私が言った「普通」では、まるで意味が違っていた。
「普通」は、それこそ普通には、特段の苦労や努力をしなくても殊更体制に抗わない限り手に入れることができるものだ。
しかし「フツー」はどうやら今の若者にはそう簡単には手に入れることができない、背伸びをし続けなければ獲得できない特別なモノらしい。
かつて日本の国民の大半が自らを「中流」と認識していた。
「一億総中流」・・・。
もっとも統計上(国民意識調査)では、いまだに国民の8割が「中流」であると思っているらしいので、「一億総中流」も決して死語ではないのかもしれない。
しかし、その「中流」の中身は激変しているんだな。
「中の中」がどんどん減って、「中の下」が増えている。
当然に、今まではほとんど存在しなかった、その下の「下流」も増殖している。
現在では、この国の7人に1人が、自分は「貧困である」と認識している・・・、というデータもある。
反対に「中の上」も「中の下」や「下流」ほどではないにしろ、増えている。
それを世間では経済格差なんて呼んでいるのだが、ホントのところ、これはもう「格差」ではなく「階級差」である・・・と断言する学者さえ存在する。
「格差」なら自力で逆転できても、「階級」となるともうダメだ。
出自でその後の人生が、ほぼ決まってしまうからだ。
人の一生ではどうにもならない・・、それが「階級差」である。
で、「中流」は・・・、実は確実に世襲体制に入ったと思っている。
これはボクの実感だが、親の中流意識は間違いなく子に受け継がれ始めている。
むしろ親がミドルならば、子はその上のアッパーミドルを目指すのが、今日的には健全なる世襲形態のようだ。
だから「中の中」から「中の上」に飛躍を遂げようとする中流家庭は、みな遅くとも中学から私立受験を子にさせるんだ。
一流大学から一流企業への道は、悲しいかな、それがアッパーミドルへの一番の近道だからだ。
ドロップアウト・・・、なんてことは子の方からは考えない。
能力的な意味でのドロップアウトならいくらでもいるのだろうが、それとて親の経済力と見栄で何とか、中流の枠の中に収めておくことくらいは・・・結構できちゃう。
そもそも中流の枠からはみ出そうなどというリベラル的思考が中流家庭の子らにあるとは思えない。
そのように育てられなかったし、そういう、アイデンティティーを揺さぶられるような学校教育も受けてこなかったはずだからだ。
つまり、戦後80年でガチガチの保守中流階級が形成されたワケだ。
あとは、そのポジションをいかに守っていくか・・・である。
「中の下」に落ちていった人々のことなど構っちゃいられない。
きっと目も合わせてくれない。
彼らは経済的ネットワークと人的ネットワークの中にいて、危機管理にも長けているから、その他多数の下流階級と交わらなくてもやっていけちゃうんだな。
ところが、どうも最近の学校教育というのは、結果的にはこの階級差を肯定する方向で施策が成されているように感じる。
考えてみれば当然の帰結なのだが、そもそも教員という職業は、もともとは雑多な階級の人々によって担われてきた。
どちらかと言えば、資産形成にはもっとも縁遠い人々が教員という特殊な職業を選んできたと思う。
ところが夢を抱いてひたむきに教育と格闘してきたら、「あれ?結構余裕な生活じゃん・・・」ということに気づいた。
一流企業並みにマイホームも手に入るし、退職金だって結構破格だ。
老後は悠々自適に海外旅行を楽しんだり、何より「元先生」は、その響きも心地よい。
するとそういった教員の生活が、ある種のステータスとなってきた。
大金持ちにはなれないけど、生活には困らない、少しだけ余裕のある、響きのいい職業として教員の人気が上昇したのは、今から20年くらい前だ。
教員不足に悩んでいる「今」では、およそ考えられないほどに教員という職業には人気があったのだ。
つまり教員も今ではすっかり「中流」に漬かっている・・・、そういうことだ。
いや、むしろ教員を初めとする公務員こそ「中流」の権化なのかもしれないぞ。
そんな人々の目に下流の人々はどのように映っているのだろうか。
明日の生活をも知れぬ低所得家庭から毎日学校へ通ってくる生徒の真の情景は、中流の教員には見えていないだろう。
「見えるよ」「わかってるよ」という教員もいる。
でもそのほとんどが、頭で理解した下流なんだな。
そんな教員研修を学校が企画する。
教員って、いや、学校(学校を運営する管理職)ってホント研修が好きなんだが、結構な頻度で低所得者家庭の現状なんかを勉強する。
だからわかったつもりになるんだ。
そしてそのことがむしろ生徒教育上は問題なんじゃないかと思ってしまう。
イジメにしろ差別にしろ、親のDVやシングルマザー・・・、全部わかってるんだ。
ホントはわかってないのに頭でわかってると思って対処するから、問題が複雑化するんじゃないのかな。
まずは「普通じゃない」をちゃんと理解する・・・、そこから始めないとダメなんだよ。
「ん?」
「フツーに大学行って、フツーに就職して・・・」
「普通でいいの?」
「えぇ、フツーがいいんです」
高校生の言う「フツー」と、教員である私が言った「普通」では、まるで意味が違っていた。
「普通」は、それこそ普通には、特段の苦労や努力をしなくても殊更体制に抗わない限り手に入れることができるものだ。
しかし「フツー」はどうやら今の若者にはそう簡単には手に入れることができない、背伸びをし続けなければ獲得できない特別なモノらしい。
かつて日本の国民の大半が自らを「中流」と認識していた。
「一億総中流」・・・。
もっとも統計上(国民意識調査)では、いまだに国民の8割が「中流」であると思っているらしいので、「一億総中流」も決して死語ではないのかもしれない。
しかし、その「中流」の中身は激変しているんだな。
「中の中」がどんどん減って、「中の下」が増えている。
当然に、今まではほとんど存在しなかった、その下の「下流」も増殖している。
現在では、この国の7人に1人が、自分は「貧困である」と認識している・・・、というデータもある。
反対に「中の上」も「中の下」や「下流」ほどではないにしろ、増えている。
それを世間では経済格差なんて呼んでいるのだが、ホントのところ、これはもう「格差」ではなく「階級差」である・・・と断言する学者さえ存在する。
「格差」なら自力で逆転できても、「階級」となるともうダメだ。
出自でその後の人生が、ほぼ決まってしまうからだ。
人の一生ではどうにもならない・・、それが「階級差」である。
で、「中流」は・・・、実は確実に世襲体制に入ったと思っている。
これはボクの実感だが、親の中流意識は間違いなく子に受け継がれ始めている。
むしろ親がミドルならば、子はその上のアッパーミドルを目指すのが、今日的には健全なる世襲形態のようだ。
だから「中の中」から「中の上」に飛躍を遂げようとする中流家庭は、みな遅くとも中学から私立受験を子にさせるんだ。
一流大学から一流企業への道は、悲しいかな、それがアッパーミドルへの一番の近道だからだ。
ドロップアウト・・・、なんてことは子の方からは考えない。
能力的な意味でのドロップアウトならいくらでもいるのだろうが、それとて親の経済力と見栄で何とか、中流の枠の中に収めておくことくらいは・・・結構できちゃう。
そもそも中流の枠からはみ出そうなどというリベラル的思考が中流家庭の子らにあるとは思えない。
そのように育てられなかったし、そういう、アイデンティティーを揺さぶられるような学校教育も受けてこなかったはずだからだ。
つまり、戦後80年でガチガチの保守中流階級が形成されたワケだ。
あとは、そのポジションをいかに守っていくか・・・である。
「中の下」に落ちていった人々のことなど構っちゃいられない。
きっと目も合わせてくれない。
彼らは経済的ネットワークと人的ネットワークの中にいて、危機管理にも長けているから、その他多数の下流階級と交わらなくてもやっていけちゃうんだな。
ところが、どうも最近の学校教育というのは、結果的にはこの階級差を肯定する方向で施策が成されているように感じる。
考えてみれば当然の帰結なのだが、そもそも教員という職業は、もともとは雑多な階級の人々によって担われてきた。
どちらかと言えば、資産形成にはもっとも縁遠い人々が教員という特殊な職業を選んできたと思う。
ところが夢を抱いてひたむきに教育と格闘してきたら、「あれ?結構余裕な生活じゃん・・・」ということに気づいた。
一流企業並みにマイホームも手に入るし、退職金だって結構破格だ。
老後は悠々自適に海外旅行を楽しんだり、何より「元先生」は、その響きも心地よい。
するとそういった教員の生活が、ある種のステータスとなってきた。
大金持ちにはなれないけど、生活には困らない、少しだけ余裕のある、響きのいい職業として教員の人気が上昇したのは、今から20年くらい前だ。
教員不足に悩んでいる「今」では、およそ考えられないほどに教員という職業には人気があったのだ。
つまり教員も今ではすっかり「中流」に漬かっている・・・、そういうことだ。
いや、むしろ教員を初めとする公務員こそ「中流」の権化なのかもしれないぞ。
そんな人々の目に下流の人々はどのように映っているのだろうか。
明日の生活をも知れぬ低所得家庭から毎日学校へ通ってくる生徒の真の情景は、中流の教員には見えていないだろう。
「見えるよ」「わかってるよ」という教員もいる。
でもそのほとんどが、頭で理解した下流なんだな。
そんな教員研修を学校が企画する。
教員って、いや、学校(学校を運営する管理職)ってホント研修が好きなんだが、結構な頻度で低所得者家庭の現状なんかを勉強する。
だからわかったつもりになるんだ。
そしてそのことがむしろ生徒教育上は問題なんじゃないかと思ってしまう。
イジメにしろ差別にしろ、親のDVやシングルマザー・・・、全部わかってるんだ。
ホントはわかってないのに頭でわかってると思って対処するから、問題が複雑化するんじゃないのかな。
まずは「普通じゃない」をちゃんと理解する・・・、そこから始めないとダメなんだよ。
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