「わからない」が、わからなければ、先生は勤まらない。
一般的に勉強という類いのものに関して、難なく「わかってきた」ところの人々が先生という職業に就きやすい。
つまり勉強に関して「良くわかっている」から、その「わかっている」状態で子どもたちを指導する…、それが先生ってヤツだ。
だから「こんなこともわからないの?」という「わからない」子どもたちに対する先生の感情は、実は先生の本音である。
そして「こんなこともわからないの?」と先生から括られた子どもたちにとっては、そういった先生の直の感情が、手に取るように「わかる」。
勉強は「わからない」けれども、その「わからない」を嘆いている先生の感情が「わかる」のである。
思春期に突入するまでの子どもは、とにかく先生に好かれようとする。
いたいけなほど、先生に寄ったところで自身を正しく見てもらいたい…、そのための無意識な努力をする。
自分の親がそうであるように、ありのままの自分を認めてほしいのだ。
親は子どもに承認を与える時、特段の「条件」はつけない。
ということが、親である人々の了解事項となっている。
だから「ありのままの子ども」を愛し、承認する。
ところが先生はどうだろう?
「ありのままの子ども」を承認するだけのマインドになっているだろうか?
それはちょっと無理な話しかもしれない。
先生は勉強を教え、ものごとの理を教え、そして正義を教える…、そういった特殊な立場なのだ。
だからそれらの教えを、子どもたちが「わかった」状態にするのが使命なのである。
だから、この「わかった」状態にある生徒・児童を、先生は初めて承認することができるわけだ。
先生からのこの承認を、学校では「評価」という。
つまり学校では、常に子どもたちは先生から「評価」されているところの存在である。
この「評価」を記号や数字に当てはめて可視化したもの…、それが「評定」だ。
だから、例えば小学校で通知表に「〇」がたくさんついていれば、そして中学校では「5」や「4」がたくさんついていれば、その子どもは、確かに先生から「評価」されたことになる。
そしてそれが「承認」となるのであるから、そういった子どもにとっての学校は、きっと居心地が良いにきまっている。
家庭における親からの承認が、無条件な状態で与えられるのとは違って、学校では「わかっている」=「評価されている」といった状態でなければ、子どもに「承認」は与えられないのだ。
学校サバイバルである。
しかし、ボクはそれが学校であっていい…、そう思っている。
「わからない」を放置しておくと、学校という社会では、中々「承認」されない…、そういったしくみになっていることに問題があるワケではない。
問題なのは「わからない」に括られている子どもたちが、その「わからに」を放置したくてしているワケではないってことだ。
学校入学時…、どんな子どもたちでも、目をキラキラさせながら、その後の学校生活に明るい希望を見据えていたハズだ。
その目がだんだんと曇ってくる。
視線が落ち着かなくなってくる。
徐々に「多動」が見え始めてくる。
それが「わからない!」のシグナルであることは、よっぽど鈍感な先生でない限り「わかっている」。
だから放課後に声をかける。
「算数…、先生と一緒に少し勉強していこうか?」と。
たったひと言、その先生からのひと言で、実はたくさんの子どもたちが救われてきた。
今、「救われてきた」とボクは過去形で述べた。
そうなのだ。
現在、放課後に子どもたちを残して「お勉強会」をすることが、ほとんどの学校でできなくなっている。
安全に下校させるため…、習い事があるため…、先生の放課後が多忙であるため…、いろいろと理由はあるだろう。
しかし、ホントの理由は、特定のクラスだけに特別な指導をさせることができないことになっているからだ。
横並びってヤツである。
平等性ってヤツである。
「不平等だ!」というクレームを学校はことに怖れる。
それでも「わからない」子どもたちは、年々増え続けている。
そこで教育委員会は苦肉の策を考えた。
放課後に、すでに定年を迎えた「元先生たち」を集めて、「わからない」子どもたちのための「勉強会」を開催するのだ。
クラスは関係ない。
皆、平等に受けることができる。
しかも、個々に先生が教えてくれる場合が多い。
このシステムが、いろんな地域でいろんな名称の下で導入されている。
しかし、これで問題解決!…、とはなっていない。
受講者が極端に少ないのだ。
無料なのだから受講すればいいものなのに…、子どもたちには、今ひとつ評判がよろしくない。
ある子どもに訊いた。
「なんで受けないの?」
「先生、すぐに怒るんです。こんなことも『分からないのか!』って」
あっ!とボクは膝を叩いた。
「わからない」を切り捨ててきたところの先生が、今、歳をとって「元先生」となった。
そもそも本気になって「わからない」を分析し、そこに斬り込まないまま子どもたちを機械的に評価してきたところの先生たちだ。
だから…、そうか…、先生には「わからない」が「わからない」のである!
「わからない」と…、怒る。
それが今の先生の本音であり、本質…、正体なんだ!
つまり、先生から「わからない」を取り上げてきた、その歴史に問題があるとボクは思っている。
先生の「働き方改革」…、これは重要だ。
が、しかし、その働き方を改善するなら、もっと子どもたちと全面的に向き合うことができる「時間」を確保するべきだ。
そして「わからない!」をシグナルとして送る子どもたちへの歩み寄り…、それこそが教員の使命であり、そして醍醐味なんだってことを、教育関係者は周知するべきだ。
でも、たぶんそうはならない。
この件に関してボクは、だいぶ悲観的なんだ。
よって、恐らくはこれからも「わからない」は放置されるであろう。
であるならば…、塾の出番ではないか?
「わからない」を全面的に受け付けてサポートする…、学校の先生ではない先生…、そのプロが塾にならばたくさんいそうだ。
けれども、大半の塾はそちらの方向には靡かない。
コスパが悪く、儲からないからだ。
じゃ~、どうするのか?
市井の有志(プロ教師)が、本気になって腰を上げるしかない。
ボクはそう思っている。
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