学校の先生が「つまらなくなった」理由。
学校の先生は2000年代以降に大きく様変わりした。
というのは、あくまでもボクの私見である。
でも、あながち間違ってはいないと思っている。
2000年を過ぎた頃から、学校の先生に対する勤務評価制度が、順次導入されてきたからだと考える。
実は、自身に対する勤務評価を、学校の先生は、ずっと拒んできた。
「オレたちは、そんな単純な労働者じゃない!」
たぶん、これが拒否し続けてきた理由だ。
教員は単純な労働者じゃない・・・。
これにはボクも個人的に同意できる。
単純な労働者に対してなら、その勤務状態を管理職が評価することは当然であろう。
だが、教員の勤務状態は、たとえ優秀な管理職といえども正確に把握し評価することなんて不可能だ。
教員の主たる業務である「授業」を想像していただきたい。
授業は、良くも悪くも、そのほとんどが密室で行われる。
管理職が入り込む余地のない場所と時間が教員に与えられているワケだ。
だから、授業中の教員には「自己裁量」と「自己決定」がふんだんに担保されている。
そして、この「自己裁量」と「自己決定」の部分で、教員は個性を発揮することができる・・・。
学校の先生の仕事ってそんなもんだ。
よって教員は、その裁量権と決定権を行使して、子どもたちにとって「良き先生」であろうと努める。
自身の「パーソナル」(=個人)を冷静に分析した上で、毎年メンバーが入れ替わる子どもたちの集団との相性を考えるワケである。
で、その集団にとって、自分がどんな存在であるべきか・・・、どんな役割を担うべきか・・・、これを判断する。
このデリケートな微調整(=アジャスト)を怠った場合、その教員に対する子どもからの評価は下がる。
そう、教員は、日常的に「子どもたちから評価されている」ところの存在なのである。
つまり、管理職からの評価は相応しくない・・・、ということだ。
しかし、勤務評定制度に反対する教員の組合活動が弱体化したことを受けて、20年前から勤務評定は導入された。
その結果、教員はとんでもなく大切な「マインド」を失ったのである。
つまり「子どもたちからの(主に無言の)評価」・・・、これに敏感であろうとする「マインド」を失ったのだ。
そして、このことの罪は重い。
教員が「子どもたち」ではなく、「管理職」の顔色を伺って仕事をするようになった。
管理職にとっては、教員の管理に対する難しさから解放されて、文字通り「管理職」を全うすることができるようになった。
管理職から細かく評価される「先生」といった構図が完成したのである。
そして、この「先生」が「子どもたち」を評価する・・・。
ここに「大いなる矛盾」が存在することが理解できるであろうか?
整理をしよう。
管理職は「先生」を管理したい。
そして、その態度を評価する。
しかし、教員の授業は伝統的に密室で行われる。
つまり、管理職の「管理」に従っているか否かの判定をすることが難しいのだ。
ならば、管理職が毎時の授業を巡回して点検すればいいのではないか、とする論が成り立つ。
確かにその通りである。
それが、教員を評価する側にある「管理職」の使命であると腹を括ればいいのだ。
しかし、現実には無理な話だ。
管理職の役割は多岐にわたっていて、決して教員の授業管理だけでは済まないからだ。
という事情もあって、管理職に入ってくる教員の授業時間内の「態度」や「様子」は、自ずと「口コミ」が主流となる。
で、この「口コミ」が集まってくる、その発生の主体が問題だ。
大抵の場合が「同僚」からの情報となる。
ある教員にとって好意的な「口コミ」も、当然あるだろう。
しかし、その大半はネガティブな「口コミ」となることは、人間社会の常である。
だから、言い方を変えれば、これは「タレ込み」の類いであり「チクリ」そのものである。
で、どんな教員がネガティブな「タレ込み」や「チクリ」の被害に遭うのか?
「自己裁量」と「自己決定」を十分に活用して「オレの授業」を堂々と展開している教員が、その対象をなる場合が多い。
前述したように、教員自身のパーソナルと子どもたちの集団を掛け合わせた時、教員がその集団にアジャストした状態でパフォーマンスを発揮することは当然のことである。
つまり、そこに「横並びの授業」など存在するわけがない。
個々の教員にとって「最良の授業」が展開されていれば、そしてその授業で子どもたちが特段の不利益を受けていなければ、それこそが「個性」であり「多様性」である。
ところが、教員集団はそれを「良し」としない。
いや、それを「良し」としない集団に変えられてしまったのである。
だから「同じような授業」を展開して、同じような子どもたちを「同じように評価する」ことが集団としては「善」となった。
これが管理職に評価されることが当たり前であると考えるに至った学校の先生の子どもたちに対する「評価基準」である。
管理職による「勤務評価制度」の下で、教員は「自己裁量権」と「自己決定権」をふるって己が授業を模索し、構築することをやめてしまった。
「自己裁量兼」と「自己決定権」には・・・、そう、それを行使した場合に「自己責任」が伴うからだ。
管理職から、自身の「自己責任」を問われた時、それに抗うだけの勇気もなければ経験もない。
だから「横並び」の授業をしていた方が安全・安心なのである。
そして、そういった教員のために教科書会社は「授業マニュアル」をしっかりと用意する。
「自己裁量」ではなく「マニュアル」・・・、「自己決定」ではなく「集団決定」・・・、これが現在の学校の先生の本質である。
だから・・・、
あぁ~、つまらない!
となるワケだ。
というのは、あくまでもボクの私見である。
でも、あながち間違ってはいないと思っている。
2000年を過ぎた頃から、学校の先生に対する勤務評価制度が、順次導入されてきたからだと考える。
実は、自身に対する勤務評価を、学校の先生は、ずっと拒んできた。
「オレたちは、そんな単純な労働者じゃない!」
たぶん、これが拒否し続けてきた理由だ。
教員は単純な労働者じゃない・・・。
これにはボクも個人的に同意できる。
単純な労働者に対してなら、その勤務状態を管理職が評価することは当然であろう。
だが、教員の勤務状態は、たとえ優秀な管理職といえども正確に把握し評価することなんて不可能だ。
教員の主たる業務である「授業」を想像していただきたい。
授業は、良くも悪くも、そのほとんどが密室で行われる。
管理職が入り込む余地のない場所と時間が教員に与えられているワケだ。
だから、授業中の教員には「自己裁量」と「自己決定」がふんだんに担保されている。
そして、この「自己裁量」と「自己決定」の部分で、教員は個性を発揮することができる・・・。
学校の先生の仕事ってそんなもんだ。
よって教員は、その裁量権と決定権を行使して、子どもたちにとって「良き先生」であろうと努める。
自身の「パーソナル」(=個人)を冷静に分析した上で、毎年メンバーが入れ替わる子どもたちの集団との相性を考えるワケである。
で、その集団にとって、自分がどんな存在であるべきか・・・、どんな役割を担うべきか・・・、これを判断する。
このデリケートな微調整(=アジャスト)を怠った場合、その教員に対する子どもからの評価は下がる。
そう、教員は、日常的に「子どもたちから評価されている」ところの存在なのである。
つまり、管理職からの評価は相応しくない・・・、ということだ。
しかし、勤務評定制度に反対する教員の組合活動が弱体化したことを受けて、20年前から勤務評定は導入された。
その結果、教員はとんでもなく大切な「マインド」を失ったのである。
つまり「子どもたちからの(主に無言の)評価」・・・、これに敏感であろうとする「マインド」を失ったのだ。
そして、このことの罪は重い。
教員が「子どもたち」ではなく、「管理職」の顔色を伺って仕事をするようになった。
管理職にとっては、教員の管理に対する難しさから解放されて、文字通り「管理職」を全うすることができるようになった。
管理職から細かく評価される「先生」といった構図が完成したのである。
そして、この「先生」が「子どもたち」を評価する・・・。
ここに「大いなる矛盾」が存在することが理解できるであろうか?
整理をしよう。
管理職は「先生」を管理したい。
そして、その態度を評価する。
しかし、教員の授業は伝統的に密室で行われる。
つまり、管理職の「管理」に従っているか否かの判定をすることが難しいのだ。
ならば、管理職が毎時の授業を巡回して点検すればいいのではないか、とする論が成り立つ。
確かにその通りである。
それが、教員を評価する側にある「管理職」の使命であると腹を括ればいいのだ。
しかし、現実には無理な話だ。
管理職の役割は多岐にわたっていて、決して教員の授業管理だけでは済まないからだ。
という事情もあって、管理職に入ってくる教員の授業時間内の「態度」や「様子」は、自ずと「口コミ」が主流となる。
で、この「口コミ」が集まってくる、その発生の主体が問題だ。
大抵の場合が「同僚」からの情報となる。
ある教員にとって好意的な「口コミ」も、当然あるだろう。
しかし、その大半はネガティブな「口コミ」となることは、人間社会の常である。
だから、言い方を変えれば、これは「タレ込み」の類いであり「チクリ」そのものである。
で、どんな教員がネガティブな「タレ込み」や「チクリ」の被害に遭うのか?
「自己裁量」と「自己決定」を十分に活用して「オレの授業」を堂々と展開している教員が、その対象をなる場合が多い。
前述したように、教員自身のパーソナルと子どもたちの集団を掛け合わせた時、教員がその集団にアジャストした状態でパフォーマンスを発揮することは当然のことである。
つまり、そこに「横並びの授業」など存在するわけがない。
個々の教員にとって「最良の授業」が展開されていれば、そしてその授業で子どもたちが特段の不利益を受けていなければ、それこそが「個性」であり「多様性」である。
ところが、教員集団はそれを「良し」としない。
いや、それを「良し」としない集団に変えられてしまったのである。
だから「同じような授業」を展開して、同じような子どもたちを「同じように評価する」ことが集団としては「善」となった。
これが管理職に評価されることが当たり前であると考えるに至った学校の先生の子どもたちに対する「評価基準」である。
管理職による「勤務評価制度」の下で、教員は「自己裁量権」と「自己決定権」をふるって己が授業を模索し、構築することをやめてしまった。
「自己裁量兼」と「自己決定権」には・・・、そう、それを行使した場合に「自己責任」が伴うからだ。
管理職から、自身の「自己責任」を問われた時、それに抗うだけの勇気もなければ経験もない。
だから「横並び」の授業をしていた方が安全・安心なのである。
そして、そういった教員のために教科書会社は「授業マニュアル」をしっかりと用意する。
「自己裁量」ではなく「マニュアル」・・・、「自己決定」ではなく「集団決定」・・・、これが現在の学校の先生の本質である。
だから・・・、
あぁ~、つまらない!
となるワケだ。
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