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「行動経済学」と「学校」

「行動経済学」と「学校」

「祝、〇〇部全国大会出場!」とか、

「祝、〇〇さん、国体優勝!」とか、

挙げ句の果てに、

「〇〇さん、東大合格おめでとう!」

など・・・。

これらは、学校の校舎やフェンスなどに掲げられる「垂れ幕」の一部である。

気持ちはわからなくもない。

生徒たちの努力や成果を、学校をあげて祝福する・・・、その純粋な精神は、教育的にはとても重要だ。

でも、ホントに「純粋な精神」からの垂れ幕なのだろうか?

大手進学塾にもある。

垂れ幕までとはいかないが、明らかに通行人を意識して塾の窓枠一杯に貼ってある受験結果の数々・・・。

「〇〇高校15人合格!」とか、
「〇〇大学30人合格!」とか・・・。

でも、この文化ってなんかおかしくないか?

個人の努力や成果を賞めるのなら、大いに内輪で賞めてあげればいい。

なんで敢えて外に向かって発信する必要があるのか?

誰が何のために誰に向けて発信しているのか?

そこにあるのは「大人の事情」・・・、それ以外にないよよね。

学校や塾のブランディング・・・、そのために「個人の成果」を利用しているに過ぎない。

ボクにはそういった学校や塾の安直なブランディング行為を「さもしい」と思ってしまうひねくれた精神がある。

なりふり構わずに、なんでも有名になればそれでいいのか?

有名になるために全国から強豪生徒を集めて全国大会への出場が叶えばいいのか?

入塾テストで頭の良い子どもだけを特別なクラスに入れて有名高校や大学に合格させればそれでいいのか?

そんで、有名になったら「それなりに受験生や入塾希望者が集まって」経営が安定すればいいのか?

そこに学校や塾の理念はあるのか?

ハイ、わかってます。

教育現場にもマーケティング理論が、すっかり定着してきてますよね。

いくら教育理念だ、情熱だ・・・、などと言っても、結局は市場があなたの学校や塾を「選ぶ」のですから、「選ばれる側」にもそれなりの体裁は必要ですよね。

今の時代・・・、「有名」であることと「選ばれる」ことは、悲しいかな同義である。

つまり市場では「有名」こそに価値があり、逆に「無名」・・・、それ自体が恐怖となる。

だからその恐怖に苛まれて皆がブランディングに奔走する。

でもってご丁寧にそのブランディングを「市場戦略」としてコンサルタントする専門企業もある。

大学対抗〇〇駅伝は、このブランディング戦略の、もっともコスパのいいイベントであるという。

正月の丸2日間にわたって、ゼッケンに大学名をデカデカとつけた駅伝選手がテレビ画面を独占することができる。

トップ争いでもしていれば、ゼッケンの画面だけでなく、それを実況するアナウンサーから、何十回も大学名が連呼される。

しかも無料で・・・。

こんな「宣伝効果」抜群の競技会に、大学も本気になって先行投資するようになった。

で、視聴者は連呼された大学に何となく好印象を抱く。

だから翌年の受験生が「わんさか」増える。

これを「ハロー効果」という。

実態は伴っていなくてもいいのだ。

「ハロー」、つまり「輝いて見えること」・・・、そのことが大事なのだ。

行動経済学というヤツである。

学校や塾を責めるつもりはない。

ただ「情けない」と思うばかりだ。

そして、学校や塾の「いたいけな心情」が実に切ない。

ならば・・・、行動経済学ってヤツをもっと自力で深掘りしてみろよ!

って話しだ。

行動経済学っていうのは、人々の感情や直感が市場にどのような影響を及ぼすのか?

つまり市場に「人々の心理」がどのように関わって消費行動に移すのかっていう学問だ。

ボクたちは平成の30年間で、この行動経済学ってモノに散々にやられてしまってきた。

「今だけお得!」「ポイント還元!」「残り僅か!」「今すぐにメモのご用意を・・・」

ね、やられてきたでしょ?

でもね、その手法も実は、ボクも含めた「特定の人々」には既に刺さらなくなってきてるんだな。

それどころか「胡散臭い」と感じてしまう。

少なくともボクの場合・・・、そうボクの直感的には必死になって後付けした「ブランディング」は刺さらない。

「愚直」が刺さる。

単にそこに関わる人々の「良き人柄」が刺さる。

「清潔さ」「親切さ」「礼儀正しさ」・・・、つまり「まともであること」が刺さるのだ。

だから「愚直」に学校を経営し、「まとも」な教員によって「まとも」な生徒・学生を世に送り出す・・・、それだけの教育活動で十分なはずなんだが・・・。

まだ時代が追いつかないのかな?
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