「フリースクール」考。
「フリースクール」考。
フリースクールの存在が日本社会の土台を危うくする…。
東近江市長がそう言った。
で、世間が騒がしくなった。
だが、そもそも「フリースクール」って何なの?
そういった本質的な疑問をもつ人々は少ないような気がする。
だから確認のために日本の「学校制度」の歴史を述べる。
「学校」というものは近代国家が作り上げた国民教育機関である。
日本では明治政府が「学制」を公布してから「学校」がスタートする。
そう、未だ150年の歴史しか「学校」にはないのである。
それまでの教育機関は、すべてが「私塾」であった。
江戸幕府による官立の学問所も確かに存在したが、それはあくまでも官僚養成機関であったにすぎない。
つまり教育は民間が担っていたワケだが、そのことをもって国民教育とは言わない。
明治政府が始めた国民教育とは、国民を国家が目指す方向へと正しく導くための教育機関である。
だから画一的になる。
いや、画一的でないと困るのだ。
皆が同じように「読み」「書き」「そろばん」を習得して、「先生」という指揮官に無条件に従う…。
そう、皆が健全に均一な労働者や農民となることで、日本の資本主義を発展させる…、これが狙いである。
もっと具体的に言えば、勤労の延長線上に納税があるから、政府は画一的に働かせようとする。
江戸時代までの「その日暮らし」を続けることは理論的にはできない。
で、貯蓄も奨励する。
こうして、今の日本人の原型ができあがった。
さらに国民教育が国家にとって都合がいいのは「愛国心」を国民に等しく植え付けることができるからだ。
よって有事(戦争)ともなれば、愛国心を背景とした国民のエネルギーが効率よく集約される。
日清戦争の段階では、国民教育は完成していなかったから、国民のナショナリズムには点火しなかった。
しかし、それから10年後の日露戦争においては日本人のナショナリズムは沸点に達する。
だが、そのナショナリズムの高揚は明らかに政府によって演出されたものであった。
下関条約⇒三国干渉⇒遼東半島返還⇒臥薪嘗胆⇒仮想敵国ロシア
これ以上詳しくは述べないが、この流れを確信的につくって国民に浸透させたのが、当時の政府とメディアであることは間違いない。
つまり国民教育とは、国民を「おらが国(旧国=地域社会)」から引き離して「おれたちの国家」に収斂させるための装置である。
そして日本では、それが実に上手くいった。
話しをフリースクールに戻す。
フリースクールは…、つまり「私塾」である。
現在においては学校教育法の埒外で活動する教育機関である。
だから自由度が高いし、国家の干渉も受けない。
そのフリースクールに通う子どもたちが後を絶たないのが現状である。
だが、フリースクールに通うと言っても「実費」は相当にかかる。
学校教育法の埒外なのだから、当然に税金からの補助が望めないからだ。
でもフリースクールは盛況である。
それはなぜか?
画一的ではないからである。
「個人」にフォーカスした「教え」を行うことができるからである。
であるからこそ、フリースクールは常に競争原理に晒されている。
ヘタなことはできないし、ヘタな「先生」では慕われない。
そのことを一番知っているのが子どもたちだ。
学校に通う子どもたちは、フリースクールに通う子どもたちから、その情報を直に聴く。
で、「そんなこと(授業)してるんだ…」となる。
人気のフリースクールでは、学びの進度や深度は自由に決められる。
山へ行っても、工作をしても、異年齢と学びあっても、それらがすべて授業になる。
そういった子どもに「国民教育」は届かないし、窮屈以外の何ものでもないだろう。
つまり「画一的国民教育」を受けない状態の子どもがこれから社会に溢れてくるワケだ。
で、それで何か問題ありますか?
そのような「問い」に、今、ボクたちは明確な「答え」をもたなければならない。
明確な「覚悟」を示さなければならない。
その意味で言えば、東近江市長の発言は、これまで曖昧にされてきていたフリースクールの存在を人々に可視化させることに貢献した。
皮肉を込めて言えば、東近江市長のファインプレーである。
そのようにボクは思っている。
フリースクールの存在が日本社会の土台を危うくする…。
東近江市長がそう言った。
で、世間が騒がしくなった。
だが、そもそも「フリースクール」って何なの?
そういった本質的な疑問をもつ人々は少ないような気がする。
だから確認のために日本の「学校制度」の歴史を述べる。
「学校」というものは近代国家が作り上げた国民教育機関である。
日本では明治政府が「学制」を公布してから「学校」がスタートする。
そう、未だ150年の歴史しか「学校」にはないのである。
それまでの教育機関は、すべてが「私塾」であった。
江戸幕府による官立の学問所も確かに存在したが、それはあくまでも官僚養成機関であったにすぎない。
つまり教育は民間が担っていたワケだが、そのことをもって国民教育とは言わない。
明治政府が始めた国民教育とは、国民を国家が目指す方向へと正しく導くための教育機関である。
だから画一的になる。
いや、画一的でないと困るのだ。
皆が同じように「読み」「書き」「そろばん」を習得して、「先生」という指揮官に無条件に従う…。
そう、皆が健全に均一な労働者や農民となることで、日本の資本主義を発展させる…、これが狙いである。
もっと具体的に言えば、勤労の延長線上に納税があるから、政府は画一的に働かせようとする。
江戸時代までの「その日暮らし」を続けることは理論的にはできない。
で、貯蓄も奨励する。
こうして、今の日本人の原型ができあがった。
さらに国民教育が国家にとって都合がいいのは「愛国心」を国民に等しく植え付けることができるからだ。
よって有事(戦争)ともなれば、愛国心を背景とした国民のエネルギーが効率よく集約される。
日清戦争の段階では、国民教育は完成していなかったから、国民のナショナリズムには点火しなかった。
しかし、それから10年後の日露戦争においては日本人のナショナリズムは沸点に達する。
だが、そのナショナリズムの高揚は明らかに政府によって演出されたものであった。
下関条約⇒三国干渉⇒遼東半島返還⇒臥薪嘗胆⇒仮想敵国ロシア
これ以上詳しくは述べないが、この流れを確信的につくって国民に浸透させたのが、当時の政府とメディアであることは間違いない。
つまり国民教育とは、国民を「おらが国(旧国=地域社会)」から引き離して「おれたちの国家」に収斂させるための装置である。
そして日本では、それが実に上手くいった。
話しをフリースクールに戻す。
フリースクールは…、つまり「私塾」である。
現在においては学校教育法の埒外で活動する教育機関である。
だから自由度が高いし、国家の干渉も受けない。
そのフリースクールに通う子どもたちが後を絶たないのが現状である。
だが、フリースクールに通うと言っても「実費」は相当にかかる。
学校教育法の埒外なのだから、当然に税金からの補助が望めないからだ。
でもフリースクールは盛況である。
それはなぜか?
画一的ではないからである。
「個人」にフォーカスした「教え」を行うことができるからである。
であるからこそ、フリースクールは常に競争原理に晒されている。
ヘタなことはできないし、ヘタな「先生」では慕われない。
そのことを一番知っているのが子どもたちだ。
学校に通う子どもたちは、フリースクールに通う子どもたちから、その情報を直に聴く。
で、「そんなこと(授業)してるんだ…」となる。
人気のフリースクールでは、学びの進度や深度は自由に決められる。
山へ行っても、工作をしても、異年齢と学びあっても、それらがすべて授業になる。
そういった子どもに「国民教育」は届かないし、窮屈以外の何ものでもないだろう。
つまり「画一的国民教育」を受けない状態の子どもがこれから社会に溢れてくるワケだ。
で、それで何か問題ありますか?
そのような「問い」に、今、ボクたちは明確な「答え」をもたなければならない。
明確な「覚悟」を示さなければならない。
その意味で言えば、東近江市長の発言は、これまで曖昧にされてきていたフリースクールの存在を人々に可視化させることに貢献した。
皮肉を込めて言えば、東近江市長のファインプレーである。
そのようにボクは思っている。
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