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「子どもと大人の境界」

「子どもと大人の境界」

子どもは大人を…よ~く見ている。

観察している。

つまりどんな大人も、子どもたちから観察されている。

で、子どもは自分の手の内に入れたい大人を物色しているワケだ。

誤解をしてはいけない。

大人が子どもを選ぶのではない。

子どもが大人を選んでいるのである。

だから、自身の手の内に入った大人と、その大人を選んだ子どもの相性はいい。

同じ空間を一緒に遊ぶことができる。

だから何でも教えてくれる。

子どもに何かを教えるために大人が必要なのではない。

子どもから何かを教わるために「心を開放している」大人が必要なのだ。

そんな大人を子どもたちは大好物にしている。

つまり「子どものような大人」との絡みが子どもは大好きなのである。

もちろん、そんな大人とて、大人の領域を忘れているワケではない。

大人目線で子どもを見守ることは、子どもと絡むときの大前提であるには違いない。

しかし、そのあたりの感覚が希薄な大人が、特に最近増えてきたと思う。

本気になって遊べない大人たちだ。

大人なんだから…、という理由で子どもを「管理」することが使命だと思い込みすぎている人々が多い。

そしてこの傾向は学校の先生にこそ顕著に現われてきた。

男子も女子も関係なく「〇〇さん…」なとと呼称する先生に、残念ながら子どもたちは絡もうとはしない。

だから先生は「先生」以上でもなければ、それ以下でもない。

ただの「オジサン・オバサン」になることができれば、子どもたちとの本気の「絡み」を劇的に楽しむことができるのに…。

結局は子どもの「管理者」としての
「先生」でしかいられないのが、今の先生だ。

先生が不足しているという。

それにはボクにも心当たりがある。

子どもに求められている…、つまり子どもから絡まれる特性をもつ若き先生が、相次いで教壇から去る現状を目の当たりにしているからだ。

彼らは口々に言う。

本気になって子どもの相手をしてあげられないのが辛くて…。

で、教壇を降りる。

降りてから、例えば個人塾やフリースクールを立ち上げる。

そして数年もすると、そういった元先生が立ち上げた塾やスクールに不登校になった子どもたちが集まる。

と、これは偶然ではない。

子どもが大人を選んでいることの帰結であるとボクは思う。

子どもは大人を観察しているとボクは冒頭で述べた。

このことの本当の意味が教育行政関係者には分かっているのだろうか?

子どもが大人を観察し…、その結果、子どもが学校から、そして先生から逃げているのである。

その本質に気づかぬまま学校改革や教育改革をしようなんていうのは、お門違いも甚だしいと思う。

子どもから絡まれたことのない「先生」たちによる「子ども不在」の改革が何になるというのか?

だから、当分の間、先生不足は続くと思う。

そして先生が足りないから、条件を緩和して臨時で「先生」を募る。

だが、その段階で「先生」に応募する人々というのは、たぶん既に属性が決まっている。

そもそも子どもと「絡めない」「絡まれない」人々が、また先生をやることになるのだろう。

だって、そういった人々を採用するかしないかを決めているのが、現行の教育委員会だからである。

子どもから慕われている先生に「学校には未来がない」とさっさと去られてしまっている…、そこの頭目が教育委員会。

同じような属性の人々が「先生」に選ばれやすい。

つまり、教育の未来は…、当分暗い。
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