「学校教育」の限界。
「学校教育」の限界?
多様性が大切だ…という。
ダイバーシティは重要だ…という。
もちろん完全に多様性を担保した状態でなければダイバーシティ構想は絵に描いた餅になってしまう。
その多様性の重要度を学校は子どもに求める。
しかしそれを指南するのは学校の先生だ。
ここで問題が炙り出される。
ちなみにボクは学校の先生の応援団を自認しているから、これから述べることは先生に対する苦言でもなんでもない。
結論から言えば、学校の先生の多様性こそが進められるべきだ。
しかしそうはなっていない。
自分の頭で考えて、子どもたちとの多様な関係性を模索しようとする先生から、どんどん辞めている。
学校現場に見切りをつけているワケだ。
ボクは都内の大学附属高校に週に2日ほど非常勤で勤務している。
で、空き時間になると大学構内を散策する。
大学生が受ける講義を教室外から聴くこともある。
そのひとつに教職課程の集団講義がある。
これから教職に就こうとする学生のためのレクチャーであるといってもいい。
その講義内容で、ある現象が気になった。
「教員として採用されたければ必ずその自治体が開催する教員養成講座に参加するように…」
これだ。
教員はそもそも大学が養成していたはずだ。
だから大学毎の「色」がつく。
これを多様性と置き換えてもいいだろう。
ところが今、大学が養成する、その学生を自治体の教育委員会が養成し直す動きが活発になっている。
これはどういうことか?
自治体の…、教育委員会の「色」に染め上げたいのだ。
そして実際にそれぞれの「色」に染め上げられて統一した「色」を纏った学生が自治体の先生として採用される。
学生時代に、その自治体地域で塾講などのアルバイトを経験している学生は、特に採用されやすいと聞く。
つまり現代の先生は「同じ属性」「同じ経験」「同じ匂い」のする人々によって組織されている。
だから、その「同じ匂い」を醸し出すことができない先生は異端となる。
しかも個人的な統計ではあるが、そういった「異端の匂い」を醸し出している先生ほど子どもたちや保護者から評判がいいことが多い。
だから自身が発する「異端」が苦しくなって学校現場を去る。
この事実は何を物語っているのか?
学校自身が「多様性」の芽を摘んでいるのである。
よって結果的に「同じような先生」が残り、「同じような先生」に管理されて現場は丸く収まる。
問題なのは、多様性を求めて「個性」を前面に押し出してくる子どもたちにとっては、そういった「非多様性」の現場が息苦しいものになっているという事実だ。
非多様性は「マニュアル」と相性がいい。
で、「マニュアル」は「管理」と相性がいい。
だから先生方は子どもを正しく「管理」するための「マニュアル」を正義感を原動力として積み上げていく。
そして、この「マニュアル」に沿った子どもたちから好成績(=内申)が約束される。
それが、例えば公立中学や公立高校に通う生徒たちの、ひとつの成功モデルである。
すると、この成功モデルで好成績をとった生徒は、自身の学校時代を肯定的に捉えるだろう。
で、このような学生は、働く現場として「学校」を選ぶ場合が多い。
自身が「良い思い」をしてきたからだ。
そこに彼らにとっての「理想的な学校の先生モデル」が見えてくる。
多様性を自ら排除して「同じ匂い」を醸し出しながら「同じマニュアル」に依存した教育をすることができる先生。
これが現行の「先生」の完成形である。
だから「個性」が強ければ強いほど、その子どもの「声」は先生には届かない。
っていうか、そういった「声」は徹底的に無視されるか排除されるか…。
「あの子、変わってるから…」
という評価が職員室では大勢を占めることになる。
そう言われた「変わってる子」は、だから息を殺して学校生活を送らねばならない。
そういったことに「賢い子」ほど気づいているし、実際に経験している。
よってその生きづらさを解消するために彼らは「学校キャラ」を作り上げる。
このことの異常性に、残念ながら学校は気づいていない。
多様性を自ら放棄した学校に、そしてそのことに気づかない学校に、だから真の未来はないのだ…。
そう考えて、ボクたちは学校との関係性を限定的にした方が健全だと提言している。
つまり現行の学校には「多様性」は求めない。
代わりに「画一性」を求めよう。
画一的な学習指導…、つまり「読み」「書き」「そろばん」を徹底的にやってもらう。
生活(生徒)指導、進路(キャリア)指導なら、ほんの一部の生徒、つまり学校の先生と相性のいい生徒にのみ有効な指導をしてもらう。
他は一切を「親」が請け負う。
親の責任で、自身の子に相応しい「教育」を別立てで用意するのだ。
ボクはこれを「複線教育」と呼んでいる。
「学校」+「もうひとつの教育機関」=複線教育。
これを「今」ボクは提唱している。
多様性が大切だ…という。
ダイバーシティは重要だ…という。
もちろん完全に多様性を担保した状態でなければダイバーシティ構想は絵に描いた餅になってしまう。
その多様性の重要度を学校は子どもに求める。
しかしそれを指南するのは学校の先生だ。
ここで問題が炙り出される。
ちなみにボクは学校の先生の応援団を自認しているから、これから述べることは先生に対する苦言でもなんでもない。
結論から言えば、学校の先生の多様性こそが進められるべきだ。
しかしそうはなっていない。
自分の頭で考えて、子どもたちとの多様な関係性を模索しようとする先生から、どんどん辞めている。
学校現場に見切りをつけているワケだ。
ボクは都内の大学附属高校に週に2日ほど非常勤で勤務している。
で、空き時間になると大学構内を散策する。
大学生が受ける講義を教室外から聴くこともある。
そのひとつに教職課程の集団講義がある。
これから教職に就こうとする学生のためのレクチャーであるといってもいい。
その講義内容で、ある現象が気になった。
「教員として採用されたければ必ずその自治体が開催する教員養成講座に参加するように…」
これだ。
教員はそもそも大学が養成していたはずだ。
だから大学毎の「色」がつく。
これを多様性と置き換えてもいいだろう。
ところが今、大学が養成する、その学生を自治体の教育委員会が養成し直す動きが活発になっている。
これはどういうことか?
自治体の…、教育委員会の「色」に染め上げたいのだ。
そして実際にそれぞれの「色」に染め上げられて統一した「色」を纏った学生が自治体の先生として採用される。
学生時代に、その自治体地域で塾講などのアルバイトを経験している学生は、特に採用されやすいと聞く。
つまり現代の先生は「同じ属性」「同じ経験」「同じ匂い」のする人々によって組織されている。
だから、その「同じ匂い」を醸し出すことができない先生は異端となる。
しかも個人的な統計ではあるが、そういった「異端の匂い」を醸し出している先生ほど子どもたちや保護者から評判がいいことが多い。
だから自身が発する「異端」が苦しくなって学校現場を去る。
この事実は何を物語っているのか?
学校自身が「多様性」の芽を摘んでいるのである。
よって結果的に「同じような先生」が残り、「同じような先生」に管理されて現場は丸く収まる。
問題なのは、多様性を求めて「個性」を前面に押し出してくる子どもたちにとっては、そういった「非多様性」の現場が息苦しいものになっているという事実だ。
非多様性は「マニュアル」と相性がいい。
で、「マニュアル」は「管理」と相性がいい。
だから先生方は子どもを正しく「管理」するための「マニュアル」を正義感を原動力として積み上げていく。
そして、この「マニュアル」に沿った子どもたちから好成績(=内申)が約束される。
それが、例えば公立中学や公立高校に通う生徒たちの、ひとつの成功モデルである。
すると、この成功モデルで好成績をとった生徒は、自身の学校時代を肯定的に捉えるだろう。
で、このような学生は、働く現場として「学校」を選ぶ場合が多い。
自身が「良い思い」をしてきたからだ。
そこに彼らにとっての「理想的な学校の先生モデル」が見えてくる。
多様性を自ら排除して「同じ匂い」を醸し出しながら「同じマニュアル」に依存した教育をすることができる先生。
これが現行の「先生」の完成形である。
だから「個性」が強ければ強いほど、その子どもの「声」は先生には届かない。
っていうか、そういった「声」は徹底的に無視されるか排除されるか…。
「あの子、変わってるから…」
という評価が職員室では大勢を占めることになる。
そう言われた「変わってる子」は、だから息を殺して学校生活を送らねばならない。
そういったことに「賢い子」ほど気づいているし、実際に経験している。
よってその生きづらさを解消するために彼らは「学校キャラ」を作り上げる。
このことの異常性に、残念ながら学校は気づいていない。
多様性を自ら放棄した学校に、そしてそのことに気づかない学校に、だから真の未来はないのだ…。
そう考えて、ボクたちは学校との関係性を限定的にした方が健全だと提言している。
つまり現行の学校には「多様性」は求めない。
代わりに「画一性」を求めよう。
画一的な学習指導…、つまり「読み」「書き」「そろばん」を徹底的にやってもらう。
生活(生徒)指導、進路(キャリア)指導なら、ほんの一部の生徒、つまり学校の先生と相性のいい生徒にのみ有効な指導をしてもらう。
他は一切を「親」が請け負う。
親の責任で、自身の子に相応しい「教育」を別立てで用意するのだ。
ボクはこれを「複線教育」と呼んでいる。
「学校」+「もうひとつの教育機関」=複線教育。
これを「今」ボクは提唱している。
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