この国で「変わる」ことが困難である理由。
日本人は、「社会の変化」とどのように付き合ってきたのでしょうか?
社会科の教員として「歴史」も当然に教える立場ですから、人々が「社会の変化」にどのように関わり、そしてどのように対応してきたのかについて、無関心ではいられないため、少しその部分を掘り下げてみようと思いました。
結論から言えば、同じ「社会変化」でも、欧米のそれ(変化)と日本とでは、変化に関わる人々のその動機と役割がまるで違ってきます。
ザックリと言えば、その違いとは、人々(民衆)の主体性の「ある、なし」に大別することができるでしょう。
つまり欧米では、民衆が自らの社会を「主体的に改変してきた」ところの歴史が、そのまま近代以降の歴史となります。
この「近代」という概念がとても重要で、欧米人の間には「近代」から続く現代社会を「自分たちの主体性」によって作り上げてきたという自負心が間違いなく存在するはずです。よって、今では当たり前となり、ひとつのイデオロギーへと昇華したところの「民主主義」も「民主国家」も、そして「資本主義」も、近代以降の自分たちによる大発明であるといった感覚をもつにいたったのです。
翻って、日本社会は常に「外圧」によって変革を遂げてきました。古くは蘇我馬子や聖徳太子による日本国家の原型づくりも、それが後の世の律令を伴った中央集権型国家へと帰結するのですが、その動機も中国や朝鮮半島からの「外圧」によるものです。
源頼朝による武家政権の誕生を、日本の内発的社会変革と呼ぶことも可能ですが、残念ながらそれにも少し無理があります。つまり東国を中心とする武家政権の誕生には民衆の動向は伴っておらず、あくまでも中央から阻害され続けていた身分(位階)の低い武士層が、自らの権益を死守するために誕生させたことろの制度…、つまりあくまでも中央の権威に依存した状態で、地方の支配層による社会制度の変革であったのです。よって民衆は不在のまま社会が「なんとなく変わった」という程度の変革にすぎません。
西洋に先駆けて「民衆による自発的な社会変革のようなもの」を、無理をして日本の歴史から探し出そうとした場合、その可能性があるとしたら、個人的には南北朝期から室町期の前半まで近畿地方を中心として存在した「惣村」という自治社会を挙げることができます。
この「惣村」という形態がどのようにして成立し、その後、どのうような影響を日本社会に及ぼしたのか…、についての深い研究は未だ歴史家による途上のようですが、間違いなく言えるのは、その自治意識のDNAは、後の世の堺や博多の自治都市、或いは一向一揆に見られるような自治的領国へと受け継がれていったとう事実です。
しかし、それらの社会変革は、あくまでも局地的な現象であるにしか過ぎず、結局は、織田信長や豊臣秀吉による天下統一の波に飲み込まれてしまいます。つまり、そういった日本人の社会変革行為は、歴史的には、あくまでもトピックとして語られることはあっても、それが社会のスタンダードになることはなかったのです。
そして、ご存じのような明治維新が、あくまでも武士といった支配階級内部における下から上への政権奪取のための権力抗争であったことは明らかですから、ここにも民衆の姿は見えません。つまり、明治新政府が掲げた「王政復古」も「四民平等」も「確信的西洋化」も、そのすべてが「下級士族」たちによる政権奪取のための手段であったにすぎず、民衆が念願した社会変革ではなかった…、ということを確認する必要があるでしょう。
加えて、戦後の本格的な民主社会への変革も、その主導権が民衆にあったとは到底言えず、常にGHQと、日本社会を緩やかにまとめてきた天皇制という権威に代わる、その新たなる「権威」をGHQに認めたところの一部国内勢力が未だに牛耳っている…、そういったことを考え合わせた時、この日本という国の民衆には、主体的に社会を変革していったという成功体験が存在しないことに気づくのです。
で、あるにもかかわらず、「社会を変えよ!」「変革せよ!」といった国民からの大合唱はいつの時代も絶えることがありません。
しかし、当の本人たちには、それを実現するための、例えば「市民運動」から「市民革命」までの歴史がありません。それがないということは、「何をどのようにしたら社会が変わるのか?」の根源的な問に対する明確な答えがない状態で、それでも「社会を変えよ!」と連呼しているに過ぎない…、そんな哀れを日本人に感じてしまうのです。
そのヘンの微妙な…、けれども、とても重要な感覚を現行の為政者は十分に心得ています(きっと…)。だから、民衆は常に上からの指示や命令に従うことを「是」とする教育観の下で、金輪際「否」を主張することができない状態に置かれています。いや、「否」を主張する…、そのこと自体を封印しているのではなく、「否」と主張した…、そういった人々にとって、結局は息苦しく、住みづらい社会を構築することに成功したのですから、間接的に人々は、上の発想を「是」とすることで「それなりの幸せ」を享受することができてしまうのです。
よって、ここ日本においては、いわゆる「パラダイムシフト」は起こりえず、歴史が示すように、民衆が「知らないうちに変わってた」といった社会変革こそが、日本人の社会との関わり方の典型なのではないかと考えます。
それには、日本人が農耕民族であることが色濃く関係していることは事実でしょう。世界規模でみた場合、「農耕民族だけでほぼ構成員が占められている」といった国家というのは案外と少ないものです。
東南アジアに日本と同じような「農耕国家」を見いだすことも可能でしょうが、あの地域は「農耕国家」である以前に「海洋国家」です。欧米による植民地化に侵される以前、歴史的には島々と半島(インドシナ半島)を縦横無尽に往来しながら交易による経済圏を緩やかに維持していた…、それが実情でしょうから、ある意味で社会は変革し続けていた…、そのことを前提にしなければとてもじゃないけれどもやっていけなかったし、だからこそ中央集権的な強権国家が出現することもなく今日に至るのです。
確かに日本も「海洋国家」の要素はあります。しかし、日本列島の絶妙なる地理的独立性からその「海洋性」が、「農耕性」を上回ることは一度もありませんでした。時の権力層に抗って瀬戸内という特殊な海域に独自の勢力圏を築いていた「村上水軍」を始めとする各地域の海賊集団が、結局のところ、「海軍力」「輸送力」として時々の武家政権に組み込まれていくことを例にしても、やはり東南アジアのごとく「海洋国家」としてやってくことには無理があったのでしょう。
日本という国家は「稀にみる農耕国家」として、その国家としての強度を歴史的に積み重ねてきた…、つまり、日本のように「農耕国家」として、長年にわたり人々の「安全保障を実現し続けてきた国」という例が他に見当たらないわけです。そして、その「農耕民族」に「保守性」が色濃く浸透することは、もはや否定できない事実です。農業、とりわけ「水稲農業」は、「保守性」なくしては成り立ちません。
私たちは、そこの部分を勘違いしているのではないでしょうか?
江戸期以来、確かに一部では都市化が進みました。その都市化の波は明治維新以来、徐々に日本列島を侵食していき、その流れは、戦後の高度経済成長期に一気に加速して今日に至っています。
だから、日本のどこに行っても「都市」の気配を感じることができます。そして「都市」に住む住民は「リベラル思考」となり「変革」を望みます。このことは社会学的にも心理学的にも十分に証明することができる事実です。
しかし、だからこそ、そこに誤解が生じるのです。
都市的な思考を「もったつもり」になっている「農耕民族」としての日本人…、これが現代の日本人の真の姿なのではないかと思うのです。
つまり、中身は「完全に保守」…、けれども「時々リベラル」になったつもりでいる…、ところの日本人というのがもっとも適切な表現であろうかと思います。
そして、それでいいと思うのです。無理することはないと思うのです。
市民革命を経て民主主義を獲得した西洋人の「狩猟民族性」に対抗する必要はないのです。そして天命に従って時々の王朝を革命で交替させてきた「中国的革命性」を日本人が備えているわけがないのですから、それを模倣する必要もありません。
日本人は日本人らしく、そう、歴史がそれを教えてくれたごとく、ゆっくりと丁寧に「社会を変革」していく…、そしてその「変革」は、その当事者にすら「わからないような」スピードで、静かに続けていけばいいんです。
つまり、結論です。
日本には今、変革が必要です。しかしその社会変革を「リベラル」の側から進めていこうとすることにアレルギーが生じています。だから、その変革は「保守性」を常に担保しながら、敢えて言うならば、「リベラル」を「保守」が吸収しながら「社会変革」を成し遂げる…、実は、これって自民党のお家芸なんですが…、その自民党の伝統的手法が随分と乱暴になった…、だから維新の会の人気が高まったのではないか…、などと勘ぐっていますが…、そいうった寝技で「社会変革」を実現していこうとするところに日本人の合意が見えてくるのではないかと思うのです。
教育は、だからその構図の中で「変革」させていくべきであり、強引な「変革」は、それを主導する教員すらも望まないでしょう。
持続可能な社会の実現…、これって、そういった「寝技上等!」の日本人には得意分野なんだってこと、思い出しましょうね。
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