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ザ・公務員マインド「教員<公務員」の意味。



とある自治体の教育委員会に招かれて「教員研修」の講師を依頼されたことがあります。

「私でいいんですか?」「間違ったことは言いませんが、危ないこと、言っちゃいますよ…」

「大丈夫です。そのくらいの社会性が今の教員には必要だと思うんです」

こうして指導主事の先生に励まされながら、2時間弱の研修を行わせていただきました。内容は、当時から俄に注目されていた「アクティブラーニング」についてでしたが、それを私は長年抱き続けてきた「自説」に基づいて「残念ながら、現在の公教育の文化からは本物のアクティブラーニングを実践することはできない!」と結論づけました。

つまり、本物のアクティブラーニングを目指すならば、それを実践する「アナタたち教員が、まずアクティブワーカーでなければならないはず…」「それができますか?」ということを参加する先生方に遠慮無く発言したのです。

「おっしゃるとおりです」「目からウロコが落ちました」…、などと研修後のアンケートには綴ってあります。しかしその研修に参加した大半の先生方の本音は、実はそうではないことが次のアンケートの回答文で明確になりました。

「先生のご指摘、大変参考になりました。しかし私たちは『教員である前に公務員』なんです…、できることに限界があります」

その日以来、私は「公務員という、ある意味で特殊な役割を担う職業に従事する人々の職業観や人生観、人物評価観」…、これを「公務員マインド」と略してもいいのですが、それが気になって仕方がありません。

私の親族に「公務員」が不在であったこと、今までの私が受け続けてきた公教育で、少なからず私に影響を与えた教員(=先生)からは、「公務員」を意識させられたことがまったくなく、よって「公務員マインド」なる特殊な心理が存在すること自体に気づかなかったことが、私に日本の「公務員」の淵源を探ろうとする動機を与えました。

歴史的にみて古代日本の国家体制は中国からの借り物で整備されました。中央集権体制と律令体制というヤツです。

このうち中央集権体制は、戦国時代から江戸時代へと400年以上続いた「地方分権」であった状態を、明治政府が天皇制の復古とセットにした状態で確信的に復活させます。それが敗戦を迎えるまでの80年間続いたのですが、実を言えばその精神は現在にも受け継がれています。



確かに戦後の民主憲法で「地方自治」「地方分権」は保障されています。ところがその実態は…、といえば未だに中央集権体制です。それはどうしてなのか? 中央集権が日本人に馴染みやすいから…、とする説もありますが、私の見立てとしては、次の2つの点によって「意図的に中央集権が保存されている」ということになります。

① 憲法14条「法の下の平等」 ⇒ この精神を根拠として、日本全国のどこでも「同じような生活レベル」を実現するための方便として「地方交付税交付金制度」が、地方間格差をなくしてきた。そしてその交付金を「お上」である政府が「地方からの陳情を考慮して」分配している。つまりその構造自体に「政府>地方」という中央集権体質が完全に担保されています。「法の下の平等」を御旗にして「政府からの施しを受け続けることで存続する地方」という、どうにもならないヒエラルキーは一朝一夕では解消できません。しかもその「地方の陳情=ゴリ押しとも言う」を事実上代弁している(利益誘導ともいう)のが、その地方を地盤として当選した国会議員なのですから、もう話になりませんね。

② 公務員ヒエラルキーの温存 ⇒ 俄には信じられないかもしれませんが、日本の公務員は「古代以来、連綿と続くヒエラルキー」の中に生きています。そのヒエラルキーの頂点に君臨するのが内閣総理大臣(古代の律令制では太政大臣)なわけですが、この立場は国民から選ばれた国会議員でなければならず、常に選挙によって交替可能な状態で不安定ですから、実質上の公務員ヒエラルキーの頂点にはなりえません。よって、その頂点には間違いなく「官僚」が相応しく、各省の大臣(ほとんどが国会議員です)…、これを実質上支える「事務次官」…、この立場が絶大な威力を発揮します。

ご存じのように、私たちの民主主義は「権力の分散」によってそれが健全に機能する…、つまり独裁政治が絶対に起こらないように国民が監視し続けることによって実現します。それが議会制民主主義の精神です。だから政府は国会という議会の多数を占める与党が運営するのが倣わしであり、権力機構が「常に新陳代謝を繰り返すことができる状態」に留めておくことが重要であると考えているのです。

つまり「国民から委ねられた政治権力」を国会議員が限定的かつ慎重に行使することで、私たちの民主主義は守られているのです。

ところが日本の最高学府といわれる東大のさらにトップを誇る法学部からは国会議員は輩出されません。厳密には過去に何人かの国会議員がいて、〇〇大臣や中には総理大臣になった御仁も存在しますが、いずれも彼らは「官僚」経験者であり、官僚という立場を踏み台にして国会議員へと進んだのです。このことは何を意味しているのか?

国民から選ばれた国会議員とて「官僚の力」には及ばない、別な言い方をすれば「官僚の掌で政治をさせられている」ところの国会議員という構図が見えてくるんです。その意味で、前述した官僚出身の大臣や総理大臣は最強であるわけです。だって、予め気心が知れている、そして(ここ重要ですが…)頭脳の程度を同じくする同輩や後輩が背後に控えている状態で政治家をやるのですからね。

さて、この官僚ですが、決してそのヒエラルキーを前面に押しだして権力を誇示したりすることはありません。そういった行為が、結局は「自滅」を招くということを長い歴史(ホントに古代からの歴史観をもっています!)の中に居ますから、彼らは完全に裏方に徹する道を選ぶのです。

文科省を追われた(本人は自分で辞めたと言っていますが…)元事務次官は、そんな官僚の心得として「面従腹背」を説いています。おそらくはそんな心境で官僚は「自身の能力が最大に出力される時期と人(政治家)との出会い」を、それこそ気の遠くなるような面持ちで待っているのではないかと勘ぐったりもします。

だから2012年末に自民党の保守本流を掲げて政権を奪取した安倍政権の誕生で、官僚は「やっと自分たちの仕事ができる!」という思いからそれを歓迎したであろうことは容易に理解できます。つまり長期政権というのは、政治家がどれだけ官僚機構を内側に取り込みながら、彼ら官僚のやる気を損ねないカタチを保つことができるのか…、によって実現するものなんです。

そして、これは完全に私見ですが、安倍政権の前の三代続いた民主党政権が「あまりにもお粗末だった」ことも官僚達の期待が安倍政権に集約されたんじゃないか…、そのように思っています。官僚からすれば「やっとまともな話をすることができる機会に恵まれた」といったところでしょうか。

だから…、そのような関係性の中から「忖度政治」が生まれます。官僚自身が「居心地のいい、働きがいのある政権」に、ずっと続けて政権の座に留まってもらいたいとする本音…、それが「忖度」として現れたんじゃないかって思っているんです。

このような官僚を頂点とするヒエラルキーは、地方公務員とて無関係ではいられません。官僚をリーダーとする各省庁からの通達という「命令」で、都道府県はコントロールされているからです。しかも官僚機構は、実質的な中央集権体制の維持のための巧妙な手段も行使します。

人事交流という名の「官僚による地方出向」という制度がそれです。地方への出向は、表向きは地方の実情を知るといった「前向きな学習機会」ですが、本当の目的は「中央の意向を地方がしっかりと受け止めているか…」といった「お目付役」としての役割もあるのです。

さて、やたらと遠回りをしましたが、問題は教員の世界の「公務員化」でした。「私たちは教員である以前に『公務員』なんです…」といった発言の中には、残念ながら「教員」としての本来の資質が欠落していると言わざるを得ません。

「貧すえば鈍する」と言われるように、教員とて安定した生活の中にあって、初めて「健全な教育」を子どもたちに実践することができるのである…、といった考え方に異論はありません。そしてそれを担保するための教員の「公務員化」であるならば、それは国家の、あるいは自治体の重要なる人的資源(インフラ)なのですから、その身分が「公務員」であることに問題はないんです。

しかし「公務員マインド」の押しつけはダメです。

これは公務員に対する批判ではなく、歴史的事実ですから、どうぞ気を悪くしないでくださいね。

「公務員マインド」の中核にあるのは、仕事に対する「評価」とそれに伴った正当な「役職」にあると私は理解しています。つまり適度な評価を受け続けていれば「それなりの出世」をしながら、ヒエラルキーの上部に近づくことができる…、そういった「わかりやすい人生ゲーム」を公務員は送っているんです。

で、問題の「評価」なんですが、これを誰がするのかっていうと、直属の上司がそれをして、さらにその上層部が厳正に審査します。その際の重要なポイントは「瑕疵があるか、ないか」です。

「瑕疵」…、そう、失敗やミスのことですね。

ちなみに公務員には長年にわたって築き上げられたバイブルとしての「マニュアル」が存在します。このマニュアルは時代や社会の変化に合わせて日々更新されているのですが、それはきちんと文章化されたものもあれば、内々で口頭によって伝えられていくものもあります。そして、このマニュアルは、実は個人的にはとても重要な存在であることは認めます。特に一般の行政職にある公務員にとっては、住民や団体に公平なサービスを提供しなければならず、そこに恣意的な思惑があれば、それは「公僕」としては失格ですから、その公平を担保するためのマニュアルは、だから最重要といってもいいでしょう。

さらにちなみに、このマニュアルに則った上での職務上のトラブルに関しては「瑕疵」には当たりません。そのようなことも想定内としてマニュアルは構成されていますから、その場合は、さらに上位のマニュアルに従って管理職が対処することになっています。要は、マニュアルに従っていたか、否かなんです。



話を「評価」に戻します。

「瑕疵のある、なし」を評価の最重要点とした場合、誰だって「瑕疵」を引き起こさないようなマインドになりますよね。何かの提案をして、それが失敗した…、そうするともうこれは十分なる「瑕疵」となります。そして教員であるならば、生身の人間…、とりわけ多感な時期の子どもたちを相手に仕事をしているのですから、常にそういった教育行為には「試行錯誤」が不可欠なんですが、その「試行錯誤」の過程で…、そう「瑕疵」が大量に発生してしまうことは十分に想像できますね。

だから「何もしない!」をココロに決めて、前例踏襲の道を、たとえ一抹の理不尽を感じながらも、その道を歩み続ける…、そうすれば「瑕疵」はなく、つまりは「評価」は下がらない。

そうなんです。公務員の「評価」は、引き算によって成り立っているのであり、「改善や改革」などは、それ自体が余計なことなんです。だから、それが上手くいっても加点されず、かえって管理職の心象を悪くします。なぜならば、彼(彼女)は前例を踏襲せず、自分たちの過去を間接的に否定したことになるからです。つまり「生意気」な存在として、「減点はしないけれども、口伝えで」…、たぶん巧妙に閑職に追い込まれていきます。ということは、その生意気な彼(彼女)の挑戦が失敗に帰したら、もう完全に「評価」は最悪になるのです。

こうして思考停止状態の「公務員マインド」に染まった教員が大量発生しました。

ウソだと思うなら、どうぞ試してみてください。

管理職に申し出るのです。

「このルール(制度)って少しおかしいと思うのですが、改善していただけませんか?」って。

「先生…、何か代案はあるの?」

「はい、考えていることはあります」

「じゃ、やってみる?」

最後のやりとりが重要なんです。「じゃ、やってみて!」じゃなくて、「やってみる?」という言質には、公務員として出世してきた人々の叡智が詰まっています。

「やってみる?」って訊いたら、「やる!」っていうから、それを黙って見ていた。そしたら失敗しちゃった…、その責任は…、私じゃないですよね。だって命令してないですもん!

「公務員マインド」もここまでくれば完成品です。マニュアルに則ってない、そして前例にないことをやった人間に対しては、どう転んでも「責任はとらない」という確固たる信念とスタンスがそこには存在します。

そういった「公務員マインド」から、今度は、教員として「生徒を評価する」ってことの本質的な問題点に気づきましたか?

次回は、教員から生徒への「評価」の正しいあり方について述べたいと思います。

 

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