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生徒のココロが教員から離れ続ける理由。



学校は、もちろん教育機関です。

その教育を公的に担っているのが公立の学校…、その学校を管轄し運営しているのが教育委員会という行政機関です。このことは今さら言うまでもありません。つまり公立学校とは、あくまでも行政機関の末端であるところの公器(=社会的インフラ)としての役割を負っているのです。

行政機関は、当然に税金によって運営されています。公立の学校であれば都道府県や市町村という自治体が、それぞれにその自治体の財源の中から「教育」に必要とされる予算を慎重に確保しながら運営しているわけです。そこに国からの補助金が絡んできます。つまり「公立の学校」とは、その施設や備品、そして様々な資源(=リソース)のすべてが公費によって賄われているのですが、当然に教員の給料にも「公費」が充てられています。

「私たちは教員である以前に『公務員』なんです…」と言って、教員であるからこそ学校に蔓延するウソや偽善、そして理不尽は絶対に排除するべきだ!とする私の言を「やんわりをかわした」(=つまりそんなことはできない!と内心で認めた)のは、とある教育委員会の指導主事の先生です。30代半ばで教育委員会に招かれたその先生は、ある意味で出世路線の花形ではあります。

そういった経験をしたのが今から5年ほど前のことです。「教員である前に『公務員』!」と言い切ってしまう発想に、実は当時の私は愕然としてしまいました。私の印象では公立の教員こそが「先生の典型」であったからです。確かに「公務員」であることは事実ですし、そのことに疑問を感じたことはありませんでした。「貧すれば鈍する」と言われるように、教員の生活の安定そのものが「良き教育の源泉になる」という志向にはまったく同意するものであるからです。

ところが私の知る限り、公立の学校の教員(自身)が「公務員」であることをことさらに公言し、周囲の者たちにそれを意識させるような文化は、学校文化の中には存在しなかったと思います。

私の知らないところで、公立の教員の「何かが変わった」のです。その変化はおそらく平成に入ってからのことでしょうか?

私の知らないところで…、実はもう1つの重大な変化が公立教員にもたらされたのも平成の時代でした。

公立学校の教員に対する「勤務評定制度」が、それに反対する一部の勢力が弱まった地域から順に導入されてきました。その導入の仕方は「しれッ!」としたもので、気がついたら教員の世界に「勤務評定制度」なんです。

そしてこのことを看過してはいけません!

世間では大企業を中心として「勤務評定」は当たり前です。勤務評定は従業員の「通知表」で、それに基づいて昇進や給料が決められます。民間企業の目的は企業の業績を向上させる…、そのことによって企業は結果的に社会にも貢献するのである…、とするロジックによって、だから従業員をその企業の価値判断で「評価」することに疑問はありませんし、従業員も、よほど露骨な「不当評価」に遭わなければそのことに反対する論拠は持ち得ないでしょう。

実は1957(昭和32)年に、当時の岸信介内閣(安倍元首相の祖父)が、教員に対する勤務評定制度を断行する決定を下しました。教員といえども「公務員」であるわけで、その公務員が当然に評価される制度の下で働いているならば教員もそれに倣うべきである…、とした至極まっとうな理屈から勤務評定制度が教育現場に降りてきたのです。

ところがその動きに当時の教員は全面的に反対します。「教員への管理強化」が結局は「民主教育」を阻害するからであるという理由です。そもそも教員が公務員であるにもかかわらず、学校現場に勤務評定制度の導入が見送られていたのは、「教員という職務の特殊性」が考慮されていたからです。

その「特殊性」とは、個人的な見解を述べれば「公教育を受ける受益者(本人とその家族)と教員との間の確固たる信頼関係」ということにあると思います。間違いなくそういった信頼関係がなければ教育は成り立ちません。しかもその信頼関係は「人間と人間が互いに同じ景色を見続けること」によって成り立つものであると理解しているのですが、勤務評定制度の導入は、その信頼関係の一方の教員を明らかに国家と紐付けするカタチで「教員の側の権力を担保する」という構図を助長することになる…、つまりそんな状態で教員が「生徒と同じ目線」「生徒と同じ景色」を見続けてくれるワケがない…、とする不信を生徒の側が抱いてしまう恐れがある…、という意味で「教員の特殊性を認めろ!」とする論には、それなりに一理はありました。

いずれにしろ教員への勤務評定反対運動は全国的な「闘争」に発展し、しばらくの間、教員と勤務評定を結びつける発想自体がタブーとなっていったのです。

その勤務評定制度が平成の社会で復権したのは、社会による教員への評価の変化がその根底には存在します。つまり学校の様々な問題(校内暴力、学級崩壊、いじめ、受験競争…)の背景には「教員の質」を高めなければならない…、とする人々の思いが「社会の目」となって学校と教員を客観的に評価するようになっていったのです。

「社会が学校と教員を評価する」という流れは、間違いなく保護者世代(特に団塊ジュニア世代以降)の高学歴化が影響しています。つまり学校の先生に「自分だってなれたんだ!」とする学歴と教養が保護者の間にも広まったことにより、教員の社会的地位が「並程度」に下がってしまったということです。

つまり「教員という仕事の特殊性」など考慮することもなく、「誰だって教員になれる」「代替可能な職業」として教員が扱われ始めたのですから、その教員の勤務状態を評価することは、その教員が「公費」で雇われている以上、当然のことであるとする風潮が出来上がっていきました。

よって教員は、まず「公務員として振る舞う」ことを期待されます。折しも「公務員の無愛想」「公務員の非常識」が、様々なところで問題視され始めましたから、そのような苦情に敏感に反応した自治体は、完全に住民を「顧客」、いやそれ以上の存在…、つまり、まるで「上客」でも扱うかのような丁寧な対応で住民に対すような研修を公務員に徹底しました。

公務員とは、基本的には真面目で絶対に規則・ルールには厳格ですから、そういった研修の効果は抜群であったであろうことは想像することができます。事実、今となっては、どんな自治体の窓口対応も、まるでホテルのフロント対応のようなホスピタリティーに満ちています。

その精神を教員にも落とし込んだのが現行の「公立学校の先生」なんです。だから教員自身が「公務員>教員」という自身の立ち位置を何の疑問もなく公言してしまうのです。

繰り返します。今の公立学校の教員は「公務員」であることが強調されています。よって表向きは優しさと丁寧さをモットーにしているはずです。そしてものすごく自分たちの生活を支える自治体住民の「目」を恐れています。だから…、教員は…、絶対に「本音」をみせません。「信念」を語りません。

「マニュアル」に従った「教員モード」で働き続けてさえいれば、例え問題が発生しても上部機関(教育員会)がそれをカバーしてくれます。その意味で教育委員会は「危機管理センター」としての機能が備わっていると考えればいいでしょう。

んっ? 待てよ? 教育委員会が「危機管理センター」ってか?

その地域にあった理想的な教育の実現のための教育委員会…、じゃなくて…、その存在の第一義的理由が「教員の瑕疵=失敗?」を未然に防ぎ大きなトラブルに発展させないための信頼保全のための行政機関となっていることは否定することができないはずです。

ある不登校児(生徒)たちが集うコミュニティーに招かれて、彼ら不登校児(生徒)の学校や教員に対する「本音」を聴くことができる機会に恵まれました。

不登校児(生徒)に対して、その理由をいくら深掘りしても「わけ、わかんない!」と公然と職員室の教員間で言い合っていたのは、ほんの十数年前です。その輪の中に私もいました。

ただ、その頃から「わけ、わかんない!」だけでは、どうにも収まりがつかない自身の気持ちと正対していくうちに、徐々に不登校(という行為、というか現象)の裏にある「ひょっとしたら?」というグロテスクな現象の仮説を私なりに構築してきたことも事実です。

その仮説が、案外とはずれてはいなかったことが今回の不登校児(生徒)コミュニティーで確認できたことは、個人的には大きな収穫でした。

「先生ってさ…、なんかロボットみたいだよね」「わけ、わかんない!」とする発言をしたのは、決して一人や二人の子どもたちではありません。そして、これは断じて言いますが、そのような発言をするように大人の側が誘導したのではありません。子どもたちの発言の中に「わけ、わかんない!」という教員に対する合意があったことだけは紛れもない事実です。

「わけ、わかんない!」と思っているのは教員の側だけではない。子どもたちの側だって教員という存在が「わけ、わかんない!」ものになっていたのです。

そんな関係性の中から「信頼」が生まれるわけがありませんよね。

教員の一人ひとりは、とてもピュアなココロを持ち、純粋に教育界に貢献したいと思っている人たちです。しかしそのような人々は、少なくとも一部の子どもたちや保護者からは正しく受け入れてもらってはいません。「わけ、わかんない!」のですから、どのように受け入れていいかもわからないのです。

「わけ、わかんない!」の根源には、絶対に「本音を見せないところの不気味さ」があります。その不気味さが教員の側にも子どもの側にもあるのですから、もう、この解決策の入り口には「互いのココロの解放」しかあり得ないはずです。そしてそれを最初に行うのは、間違いなく大人であるところの教員の側でしょう。自身が纏っている「教員」「公務員」「サービス行政職」という鎧をはずして、彼ら不登校児(生徒)の世界に、体ひとつで飛び込んでみてください。

それが…、できないんですよね。

そういうことをする…、そういう生き方をしてこなかったんですよね。

それが「公務員」なんです。そして公務員はそれでいいんです。ずっとそうやって日本の公務員は地道なマニュアル作業に身を投じ、滅私奉公を続けてきた…、そうやって人々は安心・安全な行政サービスを享受することができているのです。そのことは絶対に否定しません。

ただ教員は、それじゃダメなんです。それじゃアナタが苦しいんです!

アナタ方は公務員です。

しかし「公務員である前に『教員』!」であること…、その精神を早く取り戻してください。

 
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