お父さんは、なぜ「キャンプへ行こう!」と言い出すのか?(9)
「正しい家族」のつくり方(夫はつらいよ編)
アメリカのヘレン・フィッシャーという人類学者が『愛はなぜ終わるのか』という書籍を出版し、それが全米でベストセラーとなったのは、1990年代の初めであった。ここにその内容の一部を紹介しようと思うが、それは実に衝撃的なものである。
人は恋愛によって一時的にドーパミンという脳内ホルモンを分泌させ「やる気モード」が全開になるという。この場合の「やる気」とは、ヘンな意味での「やる気」だけではなく、その後の子孫繁栄とそれに伴う家庭の構築に対する「並々ならぬモチベーション」を高揚させると考えるといい。しかし問題なのは、そのドーパミン効果の有効期限が「3年」であるという事実をフィッシャー女史が社会に示したということにある。
「3年」・・・、で愛は終わる。
確かに、これには心当たりがあるし、大多数の既婚者には薄々は気づいていたことなのかもしれないが、そんな自身の抱く微妙な感情を、今まで誰も吐露したことがなかったし、そんな風に感じてしまう自身に対して、ある種の「後ろめたさ」が生じているなんてことに関しても、互いに確認する機会がないまま「制度としての結婚生活」を続けていたのは事実であろう。
つまり生物学的には、ドーパミンの効力によって続いてきた「愛情に裏付けされた家庭的側面」は、特に男の場合では4年目からは急激に減退するという。しかしそれは女にも当てはまることではあるのだが、女性の場合は、例えドーパミン効力が切れた場合でも、その後の妊娠~出産期に、それとはまた別の脳内ホルモンである「エストロゲン」というのが、これも一時的に・・・、というかホントに瞬間的に大量に分泌されるという。この「エストロゲン」なるホルモンは「胎児を育む」ことに特化した脳内ホルモンであり、しかしその分泌は出産と同時に減退するという。なぜ減退するのかについては、そもそも人間の子育ての歴史が「みんなで協力して育てる」ことに由来しているからであり、一時的に「エストロゲン」によって母親の体内で主体的に育まれ出産した子どもは、その養育段階から社会による「共同養育」のシステムに組み込まれているからであるらしい。
つまり人類は、出産後の母親に、子育てによる強烈なストレスが生じるであろうことを先刻承知していたわけであり、そのための「共同養育システム」を作りだした。しかもそれが自然の状態であった時期が長かったのであるから、今日的な「核家族」形態による子育てに、母親の耐性が備わっていないということは、実は当然のことなのである。「産後うつ」という重篤な状態に至らなくても、「子育てに孤独を感じる」という日本の母親の割合は、なんと7割にも上ることにも納得がいく。
しかもそんな女性(妻=母親)の精神的危機の直面に、残念ながら男(夫=父親)は鈍感である。けれどもこのような男の「不甲斐なさ」も擁護することはできる。前述の「共同養育システム」という人類史上の「当たり前」に、男は結局は介在することなく、ということは子育てに関する備えは、そもそも男の側には内在していないのであるから、そんな男が現代の「核家族」の中で、出産後の妻の激変と子どもの無限とも言える欲求に「うろたえる」のは当然のことかもしれない。
ということは、4年目にドーパミン効果が切れた段階での男(夫)には、結婚という制度上からの責任感は備わってはいるものの、生物的な意味での「衝動」を常日頃から押さえ込みながら「家族」の中核に位置していなければならないのである。ただ理論的に、このような矛盾した状態を男(夫)が敢えて気づかないような仕組むことも可能である。それが2人目の子作りである。3年間は有効なドーパミンならば、その期限が終了する前に2人目を授かることで、夫婦互いのドーパミンを持続させる・・・、というような便利な機能が「ドーパミン」に備わっているわけはない。あくまでもドーパミンは「恋愛」を起源として分泌されるのであるから、新たなるドーパミンは「新たなる恋愛」によってしかもたらされないのだ。
2人目、そして3人目などという子づくり戦略が功を奏するのは、夫婦間の「恋愛状態」を維持するためではなく、家族が増えていく・・・、そういった事実に対する男(夫)の責任感を増幅させ、ある種の強迫観念にも近い状態で「男を家族に繋ぎとめる」ことにある。つまり本能に従っていれば、新たな恋愛を求めて彷徨うであろう男(夫)の「理性」に働きかけをして「家族」の内側に留めておくのである。そしてその意味で近代以降の教育は、男を家族内に留めることに成功していると言えよう。よって男は、自らが受け続けてきた「学校教育」と、その教育の結果として人々に支持されている「社会の目」に従順であればあるほど・・・、家族の一員であろうと努力するのである。
そう。男は本能に反して、そしてどこかで自己洗脳を続けることで、「努力」によって「家族」を構築しているのだ。だから時として、自身の努力が徒労であることを悟り「家族からの逃避」を図る男が後を絶たないのは、夫婦という男女の関係を「恋愛関係から次の関係」へと昇華させることに失敗したか、またはそもそも「次の関係」などという難しいことを望んではいないからであろう。
ちなみに「恋愛関係からの次の関係」とは、個人的な見解ではあるのだが、「家族という社会的人間関係を構築するための契約関係」であり、それが定期的に更新されることによって互いの契約関係が昇華していった時・・・、たぶん「夫婦」は「同志」という関係性になっていくんじゃないか、そう思っている。
フィッシャー女史の分析によれば、だから結婚4年目に夫婦の離婚率がピークに達するという。このタイミングで、確か(?)5組に1組の夫婦が離婚する。これは互いの「契約」が成立しなかったことの証左であり、結局のところ「ウマが合わなかった」という結果ではある。
しかし逆を言えば、この結婚4年目という象徴的な節目を何とかやり過ごすことができれば、離婚という「夫婦の危機」、そして「子育ての危機」は、徐々に遠ざかっていく。実際にデータを見ても、4年目に離婚がピークを示すこと以外で注目することができるのは、子育てが終わり徐々に老後の生活にシフトしようかという時期、つまり夫の定年前後での離婚率の上昇である。つまりは、こういった夫婦の場合、恋愛関係を「契約関係」(夫婦間の従属関係も『契約』であると解釈する)に留めることはできたものの、最終的に互いの人生を共にするという意味での「同志」とはなり得なかったのではないか・・・、そのように推測する。社会的には一度定年を迎えてしまった私の場合、配偶者との関係性が、日に日に「同志」へと変わっていくことを実感してはいるが、何分、現在進行形での取り組みではあるため、相手がどのように思っているのかは不明である。よって今後の展開には「スリル」と「シリアス」がきっと待ち受けているのであろうが、そのヘンの未経験を楽しんでいこうとは思っている。
ところで、生物学的には「放浪癖」「狩猟癖」のある男(夫)ではあるが、その厄介な男(夫)を、実は女性(妻)が(無意識にではあるが)健気にも家族に留めようと必死になっているという事実を私たち(男)が気づくことは滅多にない。
「オキシトシン」という、これも脳内ホルモンであるが、女性が出産後から子育て中に断続的に分泌されるものである。前述した「エストロゲン」という物質が瞬時に消えてしまうのに対し、「オキシトシン」は、それこそ子どもが自立を迎えるまで放出され続けるという。なるほど、この「オキシトシン」を大量に浴び続けることによって、子どもは着実に「愛着」を身につけていくのであろうが、驚くべきことに、そして世の男性には朗報であとうと思われるが、この「オキシトシン」とやらの「愛情ホルモン」は、子育て中の子どもに注がれるだけではなく、なんとその子育てを共に担うパートナーへの愛情表現としても機能しているというのだ。
しかし、ここはよ~く理解しなければならない。つまり男(パートナー=夫)への妻からの愛情表現は、「条件付き」であるという事実を見逃してはいけない。そう、「オキシトシン」は、結局は子どもを愛し、その愛情をより機能的かつ合理的に子どもに注ぎ続けるための最適な手段としてパートナーをも愛する・・・、そのような類いのホルモンである。よって子育て中の妻が、滅多に見せない愛情を自身に振りまいていると感じても、それを「新たなる恋愛感情」であると勘違いしてはいけない。男(夫)は、あくまでも子育てという人類の営みにとって有用だと思われる場合にのみ「愛される」のであり、そのような女性の感情が形成された背景には、前述した「共同養育」という人類史上長年にわたって続いてきた形態が弱体してきたからであると考えてもよさそうである。
繰り返しになるが、男(夫)は「妻の子育て中」は「条件付き」で愛される・・・、らしい。しかしこの「オキシトシン」というのは、愛情が強い分、つまり相手(子どもや夫)に注ぐ愛情が豊かであればあるほどに、副作用が大きいという。その副作用の典型が「攻撃性」である。つまり、女性は愛情の注ぎ先である相手の「裏切り」を許さない。「裏切り」と知った途端、「愛情」は一瞬にして「憎悪」に変わる。そして・・・、子どもは「母の愛情を決して裏切らない」のであるから、その愛情を適当に受け流し続けた結果、「裏切り」と認定されるのは、100%男(夫)の側なのである。
実際には子どもとて「母の愛情を裏切る」ことはありそうだが、結果的にそのような母を落胆させる子どもの行為を一般的には、母は「裏切り」であるとは認めない。むしろ母自身が「自身の子育ての欠陥」を悔いることで親子関係は修復へと向かうのであるが、こと「他人からなる夫」の裏切りに関しては容赦がない。
ちなみに、この場合の「裏切り」の定義であるが、大半の男(夫)はその喫水線を「不倫」であると断定する。だから「オレは愛妻家だ・・・、不倫などとは縁がない!」と宣言するだけで男(夫)は、夫婦の安全地帯に横たわっていると思いがちだが、実は女性(妻)にとっての「裏切り」の基準とは・・・、そうではない・・・、らしい。
子育てに「関心がない」、家族に「関心がない」、私に「関心がない」・・・、ハイ、これだけで十分に夫の「裏切り」は証明されるのである。そして、男がどんなに「子育てにコミットしている」「家族を気にかけている」「妻を大切にしている」・・・と思っていても、そんな男(夫)の思いとは別の次元で、妻は夫を冷静に判定(ジャッジ)している。
結局のところ、この男(夫)は、「子育てには必要不可欠か?」「家族には必要不可欠か?」「私には必要不可欠か?」という、とてつもなく現実的思考で妻は夫の存在価値を計るのである。その結果、「子育てにも、私にも必要ない」男ではあるけれども、「家族が生きていくためには必要な経済力を有する男」という、あくまでも男の最終スペックのみを条件として「家族」への残留が認められている男(夫)というのが、案外多いんだ・・・、ということを男は肝に銘じた方がいい。
以上が、私が長年にわたって「家族の中の男(夫=父親)の立ち位置」を観察してきたところの私見である。
女は神秘だ。だから「女を畏れる」・・・、これは正しい。
けれども、その「畏れ多い女」を妻とした瞬間・・・、男は「妻を恐れる!」・・・、これも正しい。
結果、夫は妻を「正しく恐れる!」ことを学んだ方がいいようだ。
(つづく)
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