お父さんは、なぜ「キャンプへ行こう!」と言い出すのか?(8)
「正しい家族」のつくり方(夫婦構築編)
核家族の「核」とは「夫婦」のことである。
つまり「夫婦」を「核=原子」として構成される家族形態のことであるのだから、「核」としての「夫婦のあり方」が、家族の構成員に与える影響は当然のことながら大きい。いや、子どもにとってその影響は「大きい」などという形容で済ますことはできず、子どもが「青年期」を迎えて自身のアイデンティティーを確立する際の「心理的土台」「精神的器」となる。
よってそれぞれの「夫婦のあり方」は、その起源に遡って、子どもたちそれぞれの「ものの考え方や感じ方」「問題の解決手段」や「ものごとの構築法」・・・、それら人間社会を生きるための「心理的・精神的基盤」の中核を為すものであることに疑いはない。その意味で「血のつながり」によるDNAが、そのような「基盤」を受け継ぐという生物学的要素以外に、例えば養子縁組によって新たに家族に迎え入れられた場合においても、「夫婦のあり方」という環境が子どもの「基盤づくり」に多分に影響を与えるであろうことは、社会学的にみても正しいと思う。
しかしながら、私たちの社会における「夫婦のあり方」は、その起源が実は曖昧なものが多くなったと感じている。「起源が曖昧・・・」であるということは、夫婦それぞれの「夫になる」「妻になる」という動機が曖昧な状態で「なんとなく夫婦のようなもの」が社会に生み出されているということであり、それは単に恋愛状態に置かれている「男女のカップル」と社会制度的に家族の中枢に据え置かれている「男女の夫婦」との間に、厳然と存在していた「完全なる差異」が消滅したことを意味するのではないかと考える。
「同棲を経てからの結婚」が珍しいものではなくなった。というよりも、結婚に至るまでの「ひとつの儀式」としての「同棲」が一般化し、完全に市民権を得ている状態である。そしてそのことを、現代の親世代はあまり気にしない。それどころか、むしろ「お試し期間」として、特に母親が娘に「まずは同棲から・・・」を進めるケースが増えてきていると聞く(私の周囲にも「同棲」肯定論者が多い)。しかしそのような現象が「夫婦のあり方」の・・・、その起源を曖昧なものにさせている・・・、そのように私は考えている。
手元に正確なデータはないが(そもそもそのようなデータが存在するとも思えないが・・・)、「同棲からの結婚」という(現代の)「黄金ルート」に比して、「同棲からの破局(非結婚)」というケースはどのくらいの割合なのであろうか? データが存在しないので周囲の若年夫婦、もしくは未婚男女にその実態を取材してみたが、それでもモニター数は十数件しか得られなかったので、あくまでも私の個人的な推測でしかないのであるが・・・、「破局」を経験している男女はかなりの数にのぼる。それには、たとえ最終的には「黄金ルート」からの「結婚」を成就させたとは言っても、その過程で何度かの「同棲→破局」を経験している人の数もカウントされているからであると思われる。つまり社会的には決して表面化することはなのであるが、現代の「結婚」には、そこに至るまでの「お試し」がしっかりと、しかも何度でも可能な状態が担保されていて、そのことに対する後ろめたさが希薄になった・・・、そういった社会情勢の中における男女の最終形態・・・、という側面もある。
そして、この「男女の最終形態」は、当然に「前向き志向」の延長線上に存在するものであると思いたいのであるが、決してそれだけではなく「後ろ向き志向」の「結婚」も案外と存在するんだっていうことは事実である。その典型が「デキちゃった婚」の中の「仕方ないから・・・結婚」というケースで、同じ「デキちゃった婚」の中でも「だったら・・・結婚!」というケースとは真逆に位置する。しかし「仕方ない・・・」も「だったら・・・」も、どちらの場合でも男女の「成り行きの果て」におとずれる結果にすぎず、決して夫婦という社会的形態に、互いの自らを照らし合わせたところによる結果として「婚」ではない。ということは、この段階での「婚=男女の社会的結合」という「家族構築」への動機は甚だ脆弱であるといわざるを得ず、互いの人格と哲学を突き詰めていない分、将来に何らかの問題や場合によっては「禍根」を抱えた状態での「夫婦=家族」のスタートとならざるを得ない。
しかも、いずれのケースでも「仕方ない・・・」とか「だったら・・・」などという感情の主体は男にあり、女はその男の感情の埒外に置かれる。なぜならば、妊娠が分かって「出産をするか、しないか」を含めて、このまま同棲を「続けるか、続けないか」を決める場合、絶対に避けて通れないのが「経済面」であるのだから、妊婦となって自然界からの強制的なオファーにより、子育ての初歩を歩む可能性が出てきた女にとっての脅威が「経済面」となり、つまり女は一瞬にして「弱者」へと追いやられ、その「弱者」の立ち位置から「男の出方」を待たねばならないからだ。
「それって・・・、ズルい!」「フェアーじゃない!」と、女(女性)は妊娠して初めて気づく。「男の出方」は、自身の社会的キャリアや経済的側面の一部を毀損することだけを前提にして決められるのに対して、女(女性)の選択肢では「産む」を選んだ場合には、間違いなく自身のキャリアと経済的側面の大部分を失うことになる。だから妊娠と、それに伴う女(女性)の煩悶は、「男女の本質的な違い」という感情を覚醒させ、大抵の場合に「女は不利だ」「男はズルい」という精神性を構築させる。そしてその精神性を正しく受け止めることのできない「男」が至近に存在すること自体が許せないモノとなり、その感情が昂じた時、「男への呪い」が表出することで自身の精神性を安定させるのではないか・・・、そのように推測する。
そしてここに「同棲からの結婚」という現代的結婚観への危うさを感じる。そもそも「同棲→結婚」には「コスパ的精神」を孕んでいることは間違いない。つまり「同棲」という「お試し」には、結婚後に起こりうる「離婚」という一大リスクの因子を未然に「消去する」というよりも、その因子を発見したならば、直ちに「同棲の解消」という手段で将来のリスクをヘッジするという側面があるような気がする。「同棲」への社会的寛容さの下で、それでも「離婚」という現実には中々寛容になることのできない日本社会にあって、世間体をも多分に含んだ「正しい夫婦のつくり方」を少しでも安全な環境でマスターし、しかも「リセット機能」まで搭載しているところのギリギリ「あり」としてのの社会的合意・・・、それが「同棲からの結婚」という現象なのではないかと思う。
だが、こと「危うさ」となると、「同棲からの結婚」の中に内包されている「コスパ的精神」にある。つまり「同棲」は、それを解消しても社会的には何ら問題は発生しない。恋愛の一形態であると認識されているからである。しかしながら「同棲の解消」は、「現状からの逃げ」と同義でもある。つまり共に暮らす男女の「現状」が、一緒に暮らしていたからこそ互いに見えてきた「想定外の展開」や「予想外の出来事」に遭遇することによって、「好ましくない状態」に陥った時、そこから「逃げる」ことのできる装置として「同棲」は機能する。
そして前述したような妊娠に伴って「男女の本質的な違い」に気づかされた女性の感情の激変が、かりに「同棲」という装置の中での出来事であった場合、目の前に存在する女性の変化への耐性を持ち得ない男にとっては、「逃げる」ことのハードルが低く保たれている・・・、それが「同棲」である。よって「逃げる」ことを選択した男との間に宿した生命(子ども)を「産むにしても産まないにしても」、そのリスクを最大限に背負わされるのは女性の側である。仮にもし「産む」を選択した場合、男は「子の認知」とともに「養育費」という社会的(経済的)責任が発生するが、「シングルマザー」という一生分の「肩書き(「ハンデ」とは言わない)」を背負った状態で、子どもの人生と共に歩むことを決定づけられた女性の「しくじった感」は半端ではないであろう。
ちなみに「子どもの人生と共に歩む」という、例えばシングルマザーに課せられた宿命は、そのこと自体を「自身の喜び」と捉え、そこに生きる目的を見いだす、という点に関しては、そのような生き方を決してネガティブに捉える必要はないと思っているが、人生の未だ中晩期にも差し掛かってない若き女性の「人生の選択肢」の大半を、「無かったものにする」という後ろ向きの発想から始めなければならないという「その一点」だけを考えた時、現行の日本社会では、そのようなシングルマザーの存在は「しくじり」というカテゴリーの中に埋め込まれてしまうのであり、その「しくじり」の精神的負担を女性の側のみに極端に請け負わせることの不条理が、女性から男への「怨嗟の念」となって「男社会に牙をむく」・・・、そのような連鎖が、今、この国でも進んでいるのではないかと感じるのである。
「結婚」に至る過程での「同棲」というリスクヘッジ型生活形態は、突き詰めると「夫婦」の起源を曖昧にする・・・、ということは前述したが、そもそも若き男女が、その(恋愛)交際期において「夫婦のあり方」など考えるはずもない。何となく互いに相手を気に入って・・・、しばらくの交際を経て・・・、両親を含めた互いの友人・親族へも紹介して・・・、少しずつ「結婚」を意識するようになるのである。「夫婦」という概念は、だから結婚後の男女の呼び名程度のものであり、どのような「夫婦」になるのかについては、それこそ互いに「あずかり知らない」ところではある。
しかし、実のところでは、前述したような典型的な(ということは多分に保守的な)男女の「交際→結婚」過程では、すでにその若き男女には「夫婦」としての萌芽が認められる。互いに「何も知らない」状態から→「互いに意識し始め」→「互いに互いを気に入り」→「交際を深め」→「友人に紹介し」→「親族に紹介し」→「結婚を意識し」→「結婚生活を想像し」→「結婚式を組み立てる」→「結婚して夫婦となる」→「夫婦として友人と交わる」→「夫婦として親族に挨拶に行く」・・・、このような一連の過程の中で、少しずつ若い男女は「互いの本質」に近づいていくのだ。それだけではなく・・・、実は「互いに互いを査定し合っている」のである。日常の「デート」では決して見せることのない「互いの変形のモード」時には「互いの究極のモード」に触れながら、「こんな一面もあるんだ・・・」と深く思い入れ、内面に取り込んでいくのだ。そしてその一連の言動に互いに抱いた「違和感」を「安心感」が超えて、互いの「不思議」を溶解させていく・・・、その延長線上に「結婚」があると考えればいい。
つまり若い男女には、結婚に向かう過程において、当初から互いに「違和感」は感じている。感じてはいるものの同時にその「違和感」は、互いの信頼や愛情を毀損するものではないことに徐々に気づいてゆく。改めて言うが、まったくの別次元で育ち大人となった若き男女が至近距離で付き合うことになった場合、絶対に互いへの「違和感」を避けて通ることはできない。その「違和感」の正体を突き詰めることによってもたらされる「気づき」が、互いの相手からの新規の情報となり、互いの「理解」へと繋がっていく。そしてその「気づき」の大部分が、互いに紹介し合う「親族」や「友人」の反応に起因することは知っておいた方がいい。その意味で「親族(特に両親)」や「友人」も、それぞれの友人の相手を「査定している」のであるから、結婚に至るまでの若い男女には、それを伝統的な「型」通りに進めてさえいれば、何重にも及ぶ高性能フィルターと高性能センサーで互いの真偽が計られているのである。しかし、時としてそのセンサーが異常を知らせる場合がある。「大丈夫?」「危ないよ?」というシグナルを発するのである。それでも、そのシグナルをどのように受け止めるのかについては、現代社会においてはあまり重要視されない。「自由恋愛」からの「自由結婚」は憲法でも保障されているからである。
ところが「同棲」は、これら一連の形式をすっ飛ばした状態から「結婚」を進めることが可能だ。「アンタが良ければどんな人でも良いよ」という親の言は、時に「子どもの決断に寛容」であると受け止められがちではあるが、その言葉には「無責任さ」も滲み出ている。子どもはすでに社会的にも自立しているんだから「親の出る幕ではない・・・」と思うであろうし、基本の部分では私もまったく同感ではある。自立した子どもへの精神的介入は自制したいと考える者である。
しかし「結婚」と「子育て」はそれらとは違う・・・、と思っている。
これらふたつの「営み」は、それこそ「恋愛」や「同棲」とは次元がまるで違うからである。「結婚」をして、それが互いに望まなかったものであったにしても、若き夫婦は互いの親族の円環の中に組み込まれるのであり、それがために若き夫婦は「家族」と認知されて、一族の様々な儀式に顔を出さなければならなくなる。「冠婚葬祭」・・・、それらが典型ではあるが、親族の数が多ければ、それこそバカにできない時間を「親族と共に」過ごすことが求められる。そしてそのような繋がりを意図的に拒んだ場合、「変わったヤツらだ・・・」となって徐々に親族からは遠い存在となっていく。
そして「子育て」に至っては、特に親族(特に両親)の介入が今日においては不可欠となってきている・・・、むしろその介入は積極的に歓迎し、しかし同時に「特に母親は自らを見失ってはならない」ということは既に述べてきた。
つまり「家族」の根幹とも言える「夫婦のあり方」と「子育て」には、結婚を機に社会的な身内関係となった親族(他者)からの介入は免れないのであり、逆にその力学の中から様々な知恵や伝統を流入させることで、新たな家族は永続的な精神的・経済的セーフティーネットを獲得したとも言える。ということは、「夫婦のあり方」は、それら親族の円環の中で少しずつ醸成されるものであると捉えるよりも、始めに「家族の核」としての「夫婦」が、それ(夫婦のあり方)を構築しておく必要がある。そうしなければ、例えば妻は夫の親族の中で行き場を見失ってしまうであろうし、夫も妻の親族の中では「よそ者」扱いされるだけの存在となってしまうからである。そして気がついてみると、夫婦の子どもたちだけが無邪気に両親族の中でハイブリッドな存在となり、その子どもの存在を通じてのみ互いの親族間の会話(のようなもの)が成り立つといった奇妙な状況に陥ることになる。
「同棲」は、これら一見すると「面倒な」関係性とは無縁のところで、それこそ「プライベートに進行」していく男女の営みである。その結果、経過する時間と共に互いの本質が手に取るように分かってくればいいのであるが、残念ながらその本質の部分で互いのアイデンティティーをぶつけ合いながら「互いの人生に共通する何か」を構築するための装置ではない。つまり究極の事態を「同棲」は想定していないからである。
特に男は「逃げる」ことを常に最終手段として用意しているのであるから、そのような男の本質と真剣に向き合って人生を共に歩んでいきたいと思うのであれば、初めから「お試し」など経験しないで「損得勘定を抜きにした状態」からの人間関係を構築するべきであろう。「シェア」する感覚で家賃や生活費を削減する・・・、その延長線上にあるものが「正しい夫婦」のカタチではない。互いに「与える」「受け入れる」「気遣う」ことで、実はコスパ的にはあまり正解ではないところに「夫婦のカタチ」が見えてくるかもしれない。
この「夫婦のカタチ」が正しいモノであるならば、それから続く「子どものいる家族」「子どものいない家族」も何ら問題なく構築することができるであろうし、何よりもその状態こそが互いの男女が望んでいたことなのではないか。
「夫婦になる」・・・、ということは間違いなく人間的には高次の営みである。それに「かなりの痛みを伴う」であろう。けれども新たに夫婦となった若き男女が、彼らを取り巻く社会(とりわけ親族)に及ぼす影響力も、また大きい。その意味で新たな夫婦は、互いの親族というコミュニティーの「何か」を受け継ぎ、そして次代へと繋げていく機関であるのかもしれない。
だから「結婚式」は挙げた方がいい。それは若き夫婦のため・・・、というよりも互いの両家がそれぞれに繋がる両家を交えてのコミュニティー間の儀式だからである。
「夫婦」は、そして「家族」は、社会から孤立した状態で存在できるものではない。
「同棲」が・・・、だから子どもの「おままごと」の延長にしか見えないのであるが、そんな偏見をお許し願いたい。
(つづく)
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