お父さんは、なぜ「キャンプへ行こう!」と言い出すのか?(6)
「正しい家族」のつくり方(土台編)
子どもが「青年期」を迎えたら、徐々に母親は「本来の自身のアイデンティティーに戻る」べきである・・・、ということは前述した。しかし現実には、母親は、例えば後ろ髪を引かれる思いで、徐々に確立されようとする「子どものアイデンティティー」に依拠し続ける場合が多いから、そんな母親の背中を押し続けてあげるのが父親の役割である・・・、よって父親には、子どもの「青年期」以降の子育てに、それまでの母親の関係性とは別の次元で、十分にコミットし続ける必要がある・・・、ということも既に述べた。
ここで、子どもが「青年期」を迎えるまでの十数年間の母親を取り巻く「社会的人間関係」というものを確認しておきたい。
男性とは違って、女性が出産をして母親となるということは、同時に母親の真の意味での「社会性」が分断されるということをも意味している。そして母親が一時的な育休を終え、例えそれまでの仕事(会社組織)に復帰したとしても、その「社会との分断」は無意識下で続いていく。
働き続ける母親の代弁をする立場にはないが、本来的に「男の論理」で進んでいく職場の文化と環境は、子育てをしながら働き続ける母親(ワーキングマザー)の複雑でデリケートな精神性を包摂することができるとは言い難い。一部、あくまでも母親という視点から組織を運営し、現に子育てをしながらも個人としての能力を十分に発揮して業績を上げている企業も出現しているとは聞くが、その流れが社会全般に浸透するには、それこそ根源的な「教育改革」を伴った社会変革を実現しなければならないであろう。
つまり結論として、現行の「男社会」からなる「会社組織上の仕事」に関して、子育てをしながら働き続ける女性(母親)に、仕事に対するそれまで以上の「興味」と「モチベーション」を期待することはできない。なぜならば「子育て中の女性(母親)」の「興味」と「関心」の優先順位・・・、その断トツ一位が「子どものこと」にあって、それ以外に自身の周囲に起こる出来事など「取るに足らない」事柄である・・・、そのような「本能」に母親が突き動かされていること自体は紛れもない事実であるからだ。「今朝の子どもの表情に違和感があった・・・」、たったそれだけのことで母親の脳裏から「子どもの表情」が消えることは一日中ないのだ。
しかしながら、そのような事実に男性が気づくことは稀である。だから上司は、仕事に復帰した女性(母親)に過度な期待を寄せるのであるが、例えば「子どもの急病」などによる欠勤や早退の頻出などにより、その(職務に対する)信頼が脅かされた時、男性上司は「裏切られた」と判定するのである。そして実を言えば、当の女性の側も、そのような母親の本能(母性)が、それまでのキャリアと自身のアイデンティティーが大きく揺さぶられることになるんだってことに対して「そんなの聞かされてないよ!」という状態で、一時的に呆然となる・・・、という。
男女雇用機会均等法の施行以来、確かに「採用・待遇・昇進」等の面について、表向きの男女差別はなくなったように見える。しかし皆が承知しているように「男女別の採用枠」に代わって、「総合職と一般職」という新しい採用枠が出現した。その結果、同法律の裏(真)の目的でもあったのであろうが、その目論見通りに「総合職=男」「一般職=女」という棲み分けができあがった。もちろん「総合職=女」の道もちゃんと用意されていて、キャリアアップを目指す女性にとっては「男と同じ土俵で働ける」ということで、それなりのニーズに支えられてきたのである。
ところが自身の可能性を信じて・・・、というかそれまでの自身への投資に相応しい判断として、当然のこととして「総合職」を選んだ女性社員を「結婚」→「出産」→「母性の発現」→「アイデンティティーの揺らぎ」→「仕事へのモチベーションの低下」という現実が襲うことに、女性は無防備であった。そしてそんな経験の中から露呈する女性社員の「揺らぎ」や「もがき」が、「女性総合職」への不信となって口コミで拡がってゆく・・・、だから近年の新卒女性就職希望者の8割以上が、初めから「一般職」を希望するのである。そしてそれとは逆に、男性の中には敢えて「総合職」を敬遠して「一般職」を希望する割合が増えてきたというデータもある。それは日本人女性の社会進出の低さを殊更に問題視し、だから日本の後進国性を喧伝する国際社会の顔色を伺って「カタチだけの男女平等社会」を構築しようとしてきたこの国の思惑とは、だいぶかけ離れたところに「若者の心」が存在することを意味するし、それはそれで健全なことであろうと思う。
つまり「母親となった女性」は、もうとっくに気づいてしまっているのだ。現実の社会構造の中における女性の「真の役割」と、その役割を十分に果たすことで得ることができる「心の充足」は、「より良い労働力」としてではなく、「より良い子育て」をすることでしか獲得することができないとうことを。
よって「そのような感覚に心あたりのある女性」と「なんとなく経済的には不安のない女性」は、自らの本能に従う。だから職場に復帰しても「母親の感性」を保ったまま仕事を続ける。子どもからのシグナルを常にキャッチできる体制を決して崩さない。
つまり子育て中の働く母親は・・・、本当は「仕事に没頭していない」「仕事に没頭することができない」精神環境の中にいるのである。けれども・・・、それでいい。
そのような女性(母親)の究極の選択が「一時的な専業主婦」であろう。彼女らはそれまでのキャリアや学歴を一時的に放棄して「子育て」に特化した日常を選んだ。「子育て」が、それまでの、そしてそれから続くであろう「キャリア」や「社会的地位」よりも遙かに価値の高いものであるという確信(哲学)をもって「子どもと歩む道」を選択したのである。そして誰がなんと言おうが、一定の条件(特に経済面)を満たした上での「子育て特価作戦」は、正しいと思う。
経済を最優先する政府は、盛んに女性の社会参加を煽り続けているが、現実に子育て中にある「専業主婦」や「準専業主婦(パートタイム労働者)」に、その声が届いているとは思えない。いや、現実には届いているのかもしれないが、そういった社会の要請に子育て中の女性(母親)が、確信をもって背いている・・・、そのように思うことがある。税制上の「配偶者特別控除」や国民年金の「第3号被保険者」などの制度が「専業主婦」を結果的に優遇している・・・、よってそれらの制度を改正しなければ、女性の本格的な社会進出などできない・・・、そのように論調する識者も多いが、そのような論調は、あまりにも合理主義的・効率主義的であり、子育てをする女性(母親)の置かれている特殊な精神・心理状況を考慮しているとは思えないのである。
日本の子育てをする母親の何割かは、そのような特殊な精神・心理構造の中に自身が置かれていることに無頓着ではいられないのではないか、と推測する。つまり先進国の現代的標準からはだいぶかけ離れたところに日本女性の「母性」が保存されていて、他の先進国よりもよりスピリチュアル性を維持したまま、彼女らの内なる声に忠実に生きようとする時、それが母親の心の「揺らぎ」「もがき」となって表出してくるんじゃないか・・・、そのように想像することができるのだ。
一部のヨーロッパ諸国を例にあげて、女性が男性と肩を並べて社会的な活躍をすること・・・、そのこと自体を目的として社会変革を実現しようとする向きもあるが、そのような近視眼的な見方でのみ、社会を再構築しようとすることの危険性も十分に考慮した方がいい。理論上、社会環境的に女性が男性と対等に働き、その能力を同じ土俵で計ることができるとした考え方が一般化したのは、欧米でも200年前、日本ではせいぜい130年ほど前・・・、つまりはそれぞれの地域で資本主義経済システムが導入され、それが完成した・・・、それと軌を一にする。
話を「子育て」に戻そう。
つまり、先進国では日本女性に限って、未だ発展途上にある非先進国の女性がおそらくそうであるように、「母性」の優位が保たれている・・・、そう考えることはできないだろうか。しかしこの考えは、ある意味で危険でもある。つまり先進国の経済的発展・・・、資本主義の成長が「母性」の優位性を低下させることによって成し遂げられてきたとみることも可能だからである。真性「フェミニスト」からすれば断固として受け入れがたい考え方であろうし、必要以上にフェミニズムに洗われたところの現代日本社会ですら、まともにそれを引き受けることができるような考えではない。
だが、実は、子育てを続ける日本女性は・・・、無言のまま「母性優位」を宣言している。それが「専業主婦」「準専業主婦」を選択する・・・、という現象となって現れているのではないかと思う。とするならば、一部日本女性の「専業主婦」「準専業主婦」現象とそれへの神聖視は、「母性」をイデオロギーとしたところの「静かなる社会的クーデター」と捉えてもいい。
いぜれにしろ、未だに自らの「母性」に依拠した日本の母親の「子育て」が主流となって残っている現代日本社会にあって、その「母性の優位性」をいち早く制度的に担保するような改革が実現しない限り、母親と社会の分断は絶対に避けることはできない。しかし現実では、母親と社会の分断、そして断絶はますます進んでいて、だから女性は出産と同時に「孤独」に陥るのである。働く男性は働く女性を気遣い、皆が働きやすい社会の構築は、遅々としてはいるが進められている。しかしながら、働く男性も働く女性も、子育てをする女性(母親)を本当のところでは視界に入れてはいない。「母性」のみに依拠した「子育て」を、異次元の営みと捉えているからだ。そしてそのような社会の雰囲気・空気が、母親と社会の分断を招き、母親を「孤独」に閉じ込めている・・・、そう思う。
そもそも「子育て」と「社会」との関係は、それがスペクトラムな(連続性のある)状態が本来的には望ましいのであるが、現実ではそれが有機的に結びついていない、ということだ。しかし考え方を変えれば、「子育て」こそが社会の最前線であるとも言える。男社会からは決して許容されにくい発想ではあるが、子どもをもった夫婦は、第一義的に「子育て」に全エネルギーを発揮し、仕事はその「子育て」を経済的に補完する手段であると割り切ることができれば理想だ。「子育て」は「社会全体」で担う・・・、そんな発想に立てば、母親の日々の子育てこそ「社会の最前線」となるし、そのようにして育った子どもは「社会の宝」ともなる。・・・そう、子どもは親の所有物、ましてや母親の専有物ではない・・・、「社会のタカラ」なのである。
正しい「家族」をつくりたいのであれば、まずは男女の役割の違いについて、社会的・生物学的に考察を深めて、夫婦間で独自の「家族観」を構築する必要がある。社会にあっても当然言えることではあるが、その社会の最小単位である特に「家族」では、「母性」の表出と「父性」の表出・・・、それが断続的かつ意図的に行われることが重要である。「母性」から始まる「子育て」が、「父性」の補完によって充実し、子どもの「青年期」の終了をもってひとつの到達点に辿り着くことができるということは、すでにお分かりいただけたと思うが、その過程において「母性」が殊更に優先されても「子育て」に支障が及ぶし、まして「父性」のみによる「子育て」は不可能である。
けれども、当然に男女の役割を「ジェンダー」の側面から捉えれば、「母性」と「父性」の表出がそれぞれに逆転しても問題はないと思う。その点に関しては、「ジェンダーフリー論」に異論はないし、現に「母性の強い男性」や「父性の勝った女性」も多いのであるから、前述したように、それは予め構築した夫婦間での「家族観」に基づけばいい。
「正しい家族」「正しい子育て」を目指すならば、巷間に流布している浅薄な「男女平等論」を疑ってみることだ。男女平等を本質的に極めるならば、絶対に「本質的な男女の差異」を認めてからでないとおかしなことになるからだ。
その意味で、現在、個人的に気になっている現象・・・、それは「母性の影響を殊更に強く受けながら育ったであろう『男子』」の存在が増えてきたと、学校教育現場で感じていることである。けれども面白いことに、「母性の影響を殊更に強く受けながら育っていったであろう『女子』」は、ほとんど見当たらない。
女子は・・・、たぶん「異常」・・・、そう「家族の異常」を早期に感知するセンサーが優っているのではないか。
そういった能力も「スピリチュアル」である。
だから女性は不思議・・・、神秘の中に生きる・・・、男は、そのように思っていた方がいいようだ。
(つづく)
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