複雑化した「政治思想」を整理してみました。
日本史や世界史、それに政治経済を高校生に教える場合、私が意識していることは、それらの科目に内包される社会科学的概要は「高校卒業時までには『教養』として各人がそれぞれの腑に落ちていなければならない」ということです。例えば、小学校から中学校と学んできたところの「歴史」は、結局はそれぞれの時代の「政治経済」と「文化」が連綿と堆積してきた結果のことであり、よってある時代の歴史を輪切りにして学ぶということは、その時代の「政治経済のあり方」と、それを土台にした世相の中で生きてきた人々の「文化の創造過程」を学ぶことであると理解しているつもりです。
つまり「歴史」…、それ自体の土台が「当時の政治経済のあり方」なわけですから、「政治」と「経済」に、まずは科学的なアプローチをする…、そういうことが取り敢えずの歴史の完結を求める高校生には必要な通過儀礼となるわけです。そしてそういった「通過儀礼」を経た後に、各人が獲得した社会科学的教養をさらに各人の土台として、社会の様々な刺激を受け続けながらも「大人の思想」「大人のイデオロギー」というものを構築していく…、それがまっとうな社会人としての道筋ではないかと思うのです。
ところがこの高校生(特に高校3年生)に通過儀礼として付与しなければならない社会科学的概念のひとつに「政治的イデオロギー」というものがあります。「経済的イデオロギーの違い」ならば案外と生徒は気軽に乗り越えていく…、つまりザックリと「資本主義的経済 VS 社会主義的経済」の違いが分かっていればいいわけで、その「経済的イデオロギー」を世の中(政治)にどのように取り込んでいくのか、によって「政治的イデオロギー」が決まります。よってそれら「資本主義的~社会主義的」な要素をどれだけの分量で社会に取り込むかによって「政治的イデオロギー」が決まるということは、その取り込み方によって世の中には何色にも色分けされたところの「政治的イデオロギー」が存在するということであり、さらにそういった概念は時代と共に刻々と発色を変えていく…、だから「政治的イデオロギー」の落としどころは実に難解で、それを教える側には常に「ある種の躊躇」が伴ってきます。
仮に今、各種の政治的イデオロギーを横軸に分布させてみましょう。横軸の一番右には「資本主義経済」とその資本主義ともっとも相性のいい「自由民主主義」を置きます。逆に横軸の一番左側にはその対極である「社会主義経済」と「非自由+平等主義」を配置します。すると現在の日本の「政治的イデオロギー」は横軸のどのあたりに分布することになるのでしょうか? 「限りなく右」…、そう答えるにはやや無理があります。
50歳以上の年配者ならばすでにお気づきのように、上記のような横軸だけの分布図で世界の主要国の「政治的イデオロギ-」を比較することができた時代は「冷戦期」のみです。つまりは1950年代~1980年代までの世界は、横軸の右~左の枠内で各国の政治が動いていたわけで、右の極には「資本主義+自由民主主義」の権化であるところのアメリカが位置し、その対局にはソ連が位置していました。で、当時(冷戦期)の日本は…、といえばもちろんアメリカ追従ですから「アメリカに次いで右の位置」…、と考えるのが普通なのですが実はそれが違うのです。
ご存じのように(知らない世代も増えてきましたが)冷戦期にあって日本という国は、右~左~右へとブランブランと揺れ続けていましたね。一応、政治の主導権はアメリカ追従(=保守)を標榜していた自由民主党が握っていましたが、そのカウンター勢力である社会党を支持する人々も一定数いて、実のところではアメリカほど「右の位置」に安住してはいられなかったのです。その上、数の上では過半数を得ている自民党の内部でさえ「やや左」を標榜する国会議員が存在していたのですから、自民党は、社会党のような「革新勢力」や自民党内の「リベラル勢力」が要求する政策を案外とすんなり受け入れていきます。先の大戦での責任を痛感しながらの消極的な防衛力強化政策や「なんとなく平和主義」が今日まで国民に受け入れられてきたのは、リベラル勢力が国政に与える影響が小さくなかったことの証左です。さらに日本人は、気がついてみれば「あらゆる社会保障制度」の下で、程度の差こそあるとはいえ、実は安心した生活を送ることができる数少ない先進国の一つとなっている…、このことも「保守層が常にリベラル層」を意識してきた歴史の証と言えます。
日本にはもともと「リベラル」という政治的概念はなかったはずです。保守とリベラルの対比はアメリカにおける伝統的な政治的概念でした。つまりアメリカは、歴史的に社会主義を徹底的に嫌っていましたから、社会主義的で斬新なる政治政策が国政上に存在すること自体があり得なかった…、よってアメリカには「革新勢力」という社会主義を標榜する団体は理論的にも存在しなかったのです。
ところが戦後の日本には社会主義の権化ともいえるソ連が地政学的にもすぐ傍にいて、さらには隣国の中国で共産社会主義革命が成功しました。そのような東アジア情勢の中で、社会主義に無頓着ではいられなかったのが当時の日本です。よってかなりの部分で社会主義と折り合いをつけながらのアメリカ追従でしたから、革新勢力の引力に影響されたところの保守勢力…、という立ち位置、それが冷戦終結までの自民党の政治的スタンスとなったのです。
しかし冷戦の終結は、ソ連と東欧諸国の社会主義を消滅させましたので、政治的概念としての「革新勢力」の拠り所が失われてしまいました。大国としては唯一、中国共産党が社会主義の看板を掲げてはいても、ご存じのように、その実態はと言えば、全体主義下における社会主義的資本主義(つまり国家資本主義)であるにすぎません。よって日本の旧革新勢力は一縷の望みを抱いて中国に擦り寄っていくものの、その勢力がもはや国政を動かすほどにはなり得なかったのです。
これらのことは、冷戦が終結した1990年代になって、改めて日本の政治的土台が一つに安定したことを意味するのですが、個人的にはソ連が崩壊した1991年という年は、日本の「戦後の終焉の年」と見做してもいいのではないか…、そう思っています。同時に日本の政治的概念から「革新」が消え去った瞬間であると解しても問題ないと考えます。
政治的土台が一つになったと言いましたが、その土台こそアメリカが伝統的に守り抜いてきたところの「資本主義経済+自由民主主義」のことで、1990年代以降につまりは日本のアメリカ化が完結したということになります。それと同時にアメリカ的な政治的概念を、そのまま日本の政治的概念としてメディアがそれを使用し始めた…、それが顕著になったのが2000年代以降のことであると理解しています。
アメリカの保守を標榜する共和党とリベラルの牙城である民主党…、それがそのまま自民党と民主党(当時)に重なるのですから、日本にも本格的な二大政党制の時代が到来したのか? と10数年前の私も浮き足だったわけです(それが幻想であったことは、民主党の『政治オンチ』ぶりですぐに明らかになってしまうのですが…)。
「革新勢力」に代わって政治的左翼と呼ばれるようになった「リベラル」ですが、私の感覚としての「リベラル」は、どうもそのような立ち位置ではありません。「リベラル派」とは、そのまま「自由主義者」と読み替えた場合、文字通り「右~左~右」へと変幻自在に渡り歩くことのできる「自由意志をもったところの人々」が、その意志に任せて「いいとこ取りをしながら国家を安定させ発展させていく」…、と解した方が私の腑には落ちやすく、その存在自体を良く言えば「臨機応変」、悪く言えば「日和見的なご都合主義」と捉えることができるのです。つまりは「是々非々」で事を決していこうとする態度そのものを「リベラル」と称する…、これが一番の納得です。
しかし、リベラルの立ち位置の振れ幅は、常に「中心軸」の周囲に留まっているという事実は無視しない方がいいようです。「右~左~右」というのは、何だか節操のないあやふやな状態に見えますが、そのリベラルの思想的動向を俯瞰してみると案外と一貫性というものが見えてきます。ところがこの10年の間に日本の政治的思想(概念)の中心軸がかなり「右」にシフトしてきました。第一次安倍政権あたりから「美しい国、日本」構想を打ち出して「右」への回帰を始め、結構な数の若者やメディアがそれに同調しましたが、そうなるとそれまでの中心軸の辺りで「右~左~右」へと自由に「是々非々」を実践していたリベラル勢力は、完全に中心軸の左側に追いやられてしまいました。
「リベラル」を「左翼」と呼び始めたのにはそのような理由があります。リベラルが左傾化したのではありません。完全に保守が右傾化したことによる「リベラル左翼」の誕生なんです。そしてそういった現象は、アメリカでさらに顕著なものとなっていきました。アメリカ民主党はもはや「リベラル」ではなく「新左翼勢力」であるとアメリカ主要メディアも報じています。
こうなってくると「保守」「リベラル」「右翼」「左翼」、それぞれの立ち位置を再度修正しなければならなくなります。250年しか歴史が存在しないアメリカには「極右」という概念がありません。それと同時に(前述しましたが)革新勢力との闘争の歴史がないアメリカには「極左」という概念もありません。よって現在の日本の政治的土台がアメリカのそれと同じになったとは言っても、実は日本の政治的思想(概念)の方が幅が広い…、つまりグラフの横軸を幅広く取っておく必要があります。
それに加えて「真性リベラル」は、「左翼」と結びつけられて一括りにされることを嫌います。つまり「リベラル」は、今、本来彼らが存在するべき場所…、そうかつての中心軸の周辺…、今では中心軸のやや左側にポジショニングして「自由」に動き回ります。こうして日本の「リベラル」だけでも「真性リベラル」「リベラル左翼」「リベラル保守」というカテゴリーができあがるのですから、もはや現代の政治的思想(概念)を横軸だけに並べて比較することに限界が生じました。繰り返しますが、この複雑さは、もともとは保守層の内部勢力であったはずの「リベラル」が、保守から独立したことに端を発しています。だから分かりづらく厄介なのです。
そこで現代の政治的思想は、マトリックスグラフに落とし込むことが主流となりました。しかしその手法にも私はやや困惑します。っていうか、マトリックスに落とし込むことで「リベラル」に明確なラベルが貼られてしまい、本来のリベラルが有する「自由な動き」が可視化できないのです。そこで私は、独自に「変形マトリックス」によって現代日本の政治思想(概念)を整理してみよと考えました。変形マトリックスとは、横軸の右側に「保守勢力」(そのさらに右側には『右翼』)、左側には「左翼」(そのさらに左側には『極左』)を配します。その上で、縦軸は横軸の真ん中から「上にだけ伸びている」…、ちょうど三角形の底辺と軸だけを残した状態にします(よって下に伸びる縦軸はありません)。そしてその縦軸の上に「リベラル」を配置すると、「保守層でありながらもリベラル」や「左翼色の強いリベラル」、「あくまでも中道を貫くリベラル」…、しかもそれぞれの「リベラル」の強度を表す(縦軸の上下)ことも可能となりますから、現代の日本に存在する政治的思想(概念)の大半はそのグラフに収められるはずです。
今日の国内政治や国際政治は実に複雑で難解な動きをしています。おまけに各人やメディアによる偏見に基づいた勝手な「ラベル貼り」が横行していることもあって、「誰がどのような政治的信条の下で政治をしているのか」、または「どのメディアがどんなイデオロギーの下で情報発信をしているのか」が分かりづらくなってきています。
したがって高校生の通過儀礼という「政治イデオロギーの系譜(分布)」は、なるべくわかりやすく、かつ正確である必要性がありました。「わかりやすく」を追求するために、私個人の主観も当然に入ってしまっていますが、教科書はもちろんのこと、各雑誌やテレビ番組、新聞報道、それにネットニュースからの情報を正しく理解するための私なりの工夫はしたつもりです。
政治的思想(概念)という掴み所のないモノを可視化しようとする試みですから、当然に異論もあるでしょう。ブログを読んで頂いた皆さんとの「感覚の違い」もあろうかと思います。
どうぞご容赦ください。
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