「伽藍」と「バザール」。
会社員を経験している方なら誰でも一度は「辞めたい!」と思ったことはあると思います。
私の39年間の教員生活のうち、その37年間は同じ職場でした。その意味で学校に勤め続けるということは会社員を続けているということと同義で、会社員同様、私の職場にもご多分に漏れず「終身雇用制度」と「年功序列型賃金」が健在で、それなりの生活を送り、その生活を安定させることはできていました。
それでも37年間に、私はハッキリと「辞めたい!」と思ったことが3度ありました。しかもそのうちの1回は、妻に「職場を辞める!」を宣言し、次の仕事探しを具体的に始めていたのです。慌てた妻は、まるで非行に走る我が子をまともな道に連れ戻すごとき覚悟と責任感で、私の辞職を文字通り「体を張って」防いだのです。私は妻の(家庭の危機を何とか未然に防ごうとする)切実な思いを「仕方なく受け入れ」て、辞職は諦めました。
「このままの状態でここ(職場)にいたらおかしくなる!」というシグナルが私の心に鳴り響いていました。それは例えば私が何かの壁にぶち当たって「ヤケになっていた」とか「疲れきってしまった」ということではなく、何の前触れもなく、しかしかなり強烈に私の心に響き続けていたシグナルであったと記憶しています。その危険信号を、私は「家族のため」という責任感に置き換えて結局は「聞かないフリ」をすることにハンドルをきったのですが、今となってみれば、たぶんその「消極的な決断」は正解であったと理解しています。その意味で妻には感謝しなければなりませんが…。
しかし私の一個人の経験に限らず、会社員にはなぜ定期的に「辞めてやる!」が襲ってくるのでしょうか? そのようなネガティブな感情に襲われて本当に辞めてしまわない限り、大半の(正規の)会社員には決して満足には届かなくても、それなりの「安定」と「安心」が漏れなく約束されているはずです。けれども誰にでも「辞めてやる!」は襲ってきます。
橘玲氏の著書「幸福の資本論」を読んで、この会社員特有の「辞めてやる!」現象の理由が少しだけわかったような気がしました。
橘氏は、まず資本主義で働く…、そのこと自体をゲームと捉え、そのゲームに興じる(働く)人々は大別すると2種類の環境(=空間)に分かれて存在する(労働している)と考えました。それら2種類の空間を「伽藍」と「バザール」という比喩でわかりやすく紹介しています。
まず「伽藍」(がらん)とは、寺院(金堂や講堂)や教会(聖堂)に見られるような「四方を壁によって囲われた建造物」のことを言いますが、そのような閉鎖的な空間に働く(ゲームをする)人々を会社員と定義し、よって会社員は組織から「囚われの身」に置かれやすく、そのため思考がネガティブになりやすい…。狭い閉鎖的な空間で変化のない人間関係からは、一度悪評がたつとそれを消し去ることはできず、それが元で当然のように陰湿なイジメが発生する…、その典型的な例が「学校」であると論じます。
一方で「バザール」とは、外に開かれた開放的な空間のことで、人々は思い思いに様々なものを取引することができる「場」を意味します。そこでは例え悪評がたっても「場」を自由に移動することで、その悪評も簡単にリセットすることができる…、と言います。
ここからは私見ですが、どうやら現代の会社員は「伽藍」の中に閉じ込められているのですが、そのこと自体に「息苦しさ」を感じないほどに感覚がマヒし、逆にその閉鎖的空間に依存するような精神状態…、つまりはその閉鎖的組織の価値観に自身のそれを全面的、かつ肯定的に委ねることで日常の精神を安定させているのではないか…、そのように思うに至りました。
よってその「異様さ」に気づかない人々にとっては、まさに閉鎖的空間そのものが社会のすべてであり、その中にこそ「善」があるとして、さらにその空間を(閉鎖的に)育て、その空間を神聖視することで「空間」にしがみつくのです。だから逆を言えば、その「異様さ」に気づき「そこから出たい!」「辞めてやる!」ともがいている人々の存在は「悪」であり、イジメの対象になるのではないか…、(ちょっと怪しいカルト集団のようですが…)このようにして「イジメの合法化」が行われているのではないか…、そのように思います。
ということは、私を含めた大半の会社員が経験する「辞めてやる!」は、実はその人々がいまだ精神的には健全であることを証明していることにもなり、決して世間が言うような「わがままを言うな」「身の程をわきまえろ」というネガティブな評価をそのまま当てはめることはできないでしょう。
だから今すぐにでも「伽藍」から脱出して「バザール」に身を投じろ! と言いたいのではありません。よほどのことがない限り大半の会社員にとって「バザール」への転身は困難であり、同時にリスク(例えば起業をすること、フリーとなること)を伴いますから、「伽藍」の存在そのものを否定することはできないはずです。
であるならば、「伽藍」という閉鎖的空間(組織)そのものを、少しずつ「バザール的」に変えていくしか方法はありません。古典的な言い方をすれば「風通しの良い」職場に作りかえる努力を、そこに働く人々の手で実現しなければならないのです。しかし結論から述べれば、その試みは徒労に帰すことになるでしょう。
なぜならば、会社員(公務員も当然に含む)という集団が長年にわたって築き上げたところの「伽藍」には、間違いなく何らかの「既得権益」が存在するからです。例えば、その集団(伽藍)の中にいることで「自分の存在意義」や「名誉欲」、「支配欲」を満たし、つまりは「すこぶる居心地がいい」と思っている人々にとっては、そういった感情そのものが既得権益となるからです。そしてそのようにして「伽藍」に巣くう人々…、これが体制側であれば、その職場が「バザール化」するなんてことは絶対にありません。
ただ「伽藍」に居ながらにして、すぐ隣の「バザール」の存在に気づいている…、そんな人にとっては、「伽藍」との付き合い方を少しだけ変えることで、驚くほど身軽に「バザール」へと飛躍し、そこの住人になることは可能です。要は「バザール」という、今までは出入りしたことのない空間が自分の周囲に広大に拡がっているという事実を認識することです。
今、橘氏の「幸福の資本論」という著述の表現を借りて「伽藍」と「バザール」という比喩を使っていますが、そのような便利な(なるほどね、と思えるような)比喩に出会う前、今から10年ほど前から私は「バザール」への転出を徐々に図っていたことを改めて自認します。私にとっての「伽藍」は、50歳を過ぎたあたりから、「それを破壊したくなるほどに」自身にとっては有害なものとなっていました。ならば「辞めてやる!」と以前の私なら思ったのでしょうが、そのようにはなりませんでした。
今思えば、私の場合、無意識のうちに「伽藍」と「バザール」の間を自由に行き来するパスポートのようなものを手に入れることができたのです。しかし、なぜ私がそのような心境になっていったのか…、については暫く謎のままでした。
ところが最近になって気づきました。
私の本来の軸足が「バザール」の側にあって、たまたま37年もの間、無理矢理に「伽藍」の住人として生きていかなければならなかった…、そういう事実が見えてきたんです。そう考えると心当たりがあります。その心当たり…、あぁ、またここで父親の壁にブチ当たるのです。
「バザール」人間の代表的存在であった父親の破天荒によって、「安定」と「安心」に裏付けられた小さくはあるが「心豊かな生活」を完全に破壊された(と思っている)私の母親が、高校生の私の耳元で呪文のように唱えていたフレーズ…。それが「安定が一番」「会社員が一番」だったのです。「会社員」の威力の前では、父親がそうであったように「職人」=「非会社員」の地位は恐ろしく低く、それは「鼻クソ」ほどの価値しかありませんでした。そして、どちらかと言えば当時の私も「職人」の道を何となく歩んでいましたから、そのような呪文を唱える母親の精神的支配がたまらなく嫌で、私は大学進学と同時に家を出たのです。
ところが家を出て、初めて出会う大学の友人たちはみな「会社員」の家庭で育っていました。貧しい下宿人であった私は、そのうちの何人かの友人宅へ度々招かれて夕飯をご馳走になったり、そう「家族の団欒」とやらに加えてもらったりしながら、すっかりそういった生活スタイルに憧れるようになっていきました。「会社員」と呼ばれる人々の中で育ったことのない私には、会社員であるところの友人の父親が、まるでドラマにでも出てきそうな「聡明で優しい大人」に見えたのです。
こうしてすっかり「会社員」に洗脳された私は、大学卒業と同時に「会社員」として生きる道を選びました。そこに「学校の教員」の話が転がり込んできたのです。そのことを一応、両親に相談してみたんです。父は微かに鼻で笑っていたようですが、母親の方はもう有頂天です。私立ではあっても「学校」は限りなく公務員に近い職場であり、おまけに「先生」という社会的には耳障りの良い職業を、今、自分の息子が選ぼうとしている…、そういったことに「安定教」「会社員教」の信者と化した母親は大きく満足したのであろう…、そして当時の私は、そのような母親と同じ価値観に染まっていたのですから、父親の出る幕などはなかったのです。
こうして私の「伽藍」生活が始まりました。
しかし私は、何度も「バザール」からの声を聴きます…、「戻って来い!」という声です。
その声に揺れる私を、今度は妻が引き留めます。「安定が一番」「先生が一番」って…。
やっとの思いで「伽藍」での修行を終えた私は、今、「バザール」にいて、久々の世界に目を丸くしながらキョロキョロと辺りを見回しています。
空気は綺麗です。そして視界は良好です。
SHARE
シェアする
[addtoany] シェアする