スタジャンのほろ苦い思い出。
中学から高校、そして大学へと進むにつれて、当然のことながら私の人的ネットワークも拡がり、所属するコミュニティーも増えていきました。私の場合の大学進学の最大の目的は「下宿」にあったのですから、考えてみれば確信的に地元を切り離すことで、かなり意図的に新しいコミュニティーを求めていたことになります。当時は、何だかわからないけど地元に居続けることの息苦しさをヒシヒシと感じていたわけでして、その息苦しさから解放されたいという強烈な思いが自身の原動力になっていたのです。
新しい環境やモノ、それに新しい人間と出会いたい…、それは若者としては当然のことなのかもしれませんが、その思いが私の場合は強すぎて、生活のすべてを「新鮮」なものに置き換えることにとにかく腐心していました。つまり私の大学時代は限りなく戦略的に「私を未知の世界に誘う」ことが最終目的となったのです。
その結果、私が大学生活の中心するべく選んだ部活(クラブ)が体育会ヨット部でした。高校時代まで吹奏楽部に所属していて「音楽」の世界にドップリと浸っていた私が、それとは真逆の「ヨット」を選んだのは、紛れもなくそこに「まだ見ぬ世界」が横たわっていたこらです。そして同時に「ヨット」ならば、きっと未経験者でも通用する…、つまりは「大学デビューでも遅くはない」ところの数少ないスポーツであったから…、という打算も働いていました。具体的には「努力をすればそれなりに報われしかるべき地位を得ることができる」という打算です。
「お金がかかるのではないか?」という不安は入部の初日に解決しました。「ウチのクラブには貧しい人が多いのよ」と2学年上の数少ない女子部員(先輩=これがキレイ!)から優しく言われ、「だからねみんなでバイトもするの…、そのお金で活動するから心配ないわ」…。こうして貧乏人であった私も「まだ見ぬ世界」を覗くことのできる権利を得たのです。
貧乏ヨット部での生活は過酷でした。年間を通じて毎週末に行う葉山(正確には佐島という田舎)での合宿の合間を縫ってローテーションで廻ってくる様々なバイトに従事せねばならず、そのバイトのお金が次の年の新艇を購入する資金となります。そしてヨット(ディンギー)というFRP製の艇はその耐用年数が10年にも満たず、しかもレースで好成績をあげるためには、常に新しい艇と新しい装備品を用意する必要があるのです。したがって、私たち50人のヨット部員が大学での最低限の講義出席を満たしながら、必死になってバイトを続けても1年間に購入することができるのは、たった1艇の新艇とその新艇用の装備品(セール一式と艤装品一式)だったのです。
そんな過酷の中でも私がヨット部を続けられた(一度だけ合宿所から逃走した前科はありましたが…)のは、「まだ見ぬ世界」を現実の光景として体感し、その結果として毎日が驚きの連続であったからです。私たち貧乏学生はヨットを通じて「お金持ちの世界」を垣間見ることができました。豪華なクルーザーが並ぶマリーナに、週末毎に高級外車でやってきては半日ほど外洋をクルージングして、その遊びの後始末を私たち学生に「あとはお願いしたよ…」と言って帰っていくだけのセレブ家族…。しかしそのセレブ家族が「いつもありがとうね…」と言って私たちに時々差し入れをしてくれる「トップスのチョコレートケーキ」…。とある会社の社長が仲間(その仲間の中には必ず「そのような女性」がいる)とクルーザーで遊んだあげくに、そのクルーザーを木更津港に停泊させた…、その艇を葉山まで運んで(回航という)くれないか…、お礼はする…。と言ったので二つ返事でそれを了承し、そのお礼とやらをいただくために品川の本社ビルに行った時、そのあまりの巨大さに驚き、同時に社長室で出された紅茶と「あのトップスのチョコレートケーキ」…。「これ…、ありがとな」と言いながら社長から渡された封筒の厚みにドキドキしながら、帰りのエレベーターの中でそれが20万円の現金であったこと…。
それらの驚きの象徴が「トップスのチョコレートケーキ」でした。あんなになめらかで味わい深い、それでいて大人の甘さを醸しだすチョコレートケーキを食べたことは、それまでの人生の中で一度もありませんでしたから、当時の私にとっての「トップスのチョコレートケーキ」は、セレブ世界への窓口であり、同時に「ヤマザキのチョコレートケーキ」しか知らなかった粗野で野卑なるそれまでの人生を完全に否定してもまだ余りがある…、そんな刻印を私の中に残したのです(今でもその刻印は消えていません。「トップス」と聞くだけで私の卑屈が蘇ってくるのです)。
そんな生活を送る私たちにも小さな喜びが訪れます。2年に進級するとヨット部では晴れて「スタジャン」を作ることが許されるのです。同学年15人の部員がお揃いのスタジャンの、その色やデザイン、それにオリジナルのエンブレムまで自由に制作することができる…、そういったスタジャンを着てキャンパス内や街に出る…、それが当時の何かの団体に所属する学生のステータスでした。
スタジャンの制作は2年の夏から始まりました。そして誰かが言ったのです。「一生モノになるんだから上質なモノを作ろうぜ」と。よって制作費は1着で40000円にもなりましたが、その費用をなんとか臨時のバイトで捻出して私たち15人は秋口までにお揃いのスタジャンに腕を通すことができたのです。誇らしい気分であったことは間違いありません。その日から私たちのスタジャンはヨット部の公式なカジュアルユニホーム(オフィシャルユニフォームは学ランです)となって、学年の団結心がますます堅くなっていったような気がしました。
今で言うところの「リア充」なんですね。
お金は…、確かになかったけれど「リアルは充実していた」、つまり「心は満たされていた」し、「そんな青春に一点の不満もなかった」のだと思います。しかし当時はそんなこと考えたこともなく、毎日を必死になって生きていただけです。ただ一つだけ私の青春に贅沢が備わっていたとするならば、それは「やろうと思えばなんでもできた…ところの青春を生きていた」という事実です。
「大学に進む」ことを我が家の経済事情は決して許すものではなかったけれども、それでも私が「大学にいく」ことを親は前提として貧乏を請け負っていました。それは十分に分かっていたんです。分かっていたからその思いに息子は応えなければならない…、それも分かっていたんです。しかしその思いにどのようにして応えるか…、について私のアンテナは「学業じゃないな」と勝手に感知したんですね。よって「我が青春を思いっきり謳歌する」ことだけにすべてのエネルギーを費やす…、そうすることで、きっと「何かを得ることはできるんじゃないかな…」などという曖昧な落としどころを見つけた。だから私の青春に「一切の不満があってはならない」のです。
それが私の「リア充」の正体でした。
しかしその「リア充」を満載に纏った(当時の)今どきの学生が、生まれ育った地元にフイッと帰った時、その違和感たるや半端なものではありませんでした。それも当然です。幼なじみたちはそれぞれが地元に根付いて家業を継いだり、高卒で工員や公務員になったり…、それはそれで立派なコミュニティーを形成していたのですから、1年に数回、たまに顔を出すだけの私などの存在は、おそらくそのコミュニティーからすれば徐々に異質なものへと変わっていったのだろうと想像することはできました。しかも私には無意識のうちに自身の「リア充」をひけらかす動機があったのですからなおさらです。その象徴が「スタジャン」でした。
「なんだよ、それ…」
私が着ていたスタジャンを見て最初にツッコミを入れたのは、常に仲間の中心にいて皆を楽しませる才に恵まれたHでした。Hは地元の高校を出て、そのまま金型会社(工場)に就職しました。そして私はそんな金型工場で働く人々の日常を知っていました。高校1年まで父親が経営していた(倒産しましたが…)鉄工会社が、近くの金型工場の製造ラインの一部を請け負っていたからです。当時の日本の金型はそれを追随する他の国の金型を圧倒するほどの技術力で世界を席巻していました。よって金型工場には活気がみなぎり、人手が足りない時には、私みたいなバイトにでも「手伝いに来てくれよ」といって高額の日当で雇うのです。工場には金型を成形した後の鉄屑が散乱し、油の匂いと鉄がきしむ音が充満していました。
つまり私の青春のスタート地点にHは今でも留まり、油の匂いと鉄のきしむ音に包まれています。私にはそれが飽き足らなかった…、いや、もっと正確に言えば「こことは違う世界がきっとある」という確信をもって地元を去っていったわけですから、Hの見る景色と「こことは違う世界」に飛び込んで青春を生きていた私が見ている景色がまるで違うのは当然です。
「そういうの…、スタジャンっていうの? みんなお揃いでさ、なんかオレ、嫌いなんだよね…」
Hのその言葉にSが反応します。Sは家業の石材屋を継いでいます。そしてやはり高卒でした。「オレにはわかんないけど、なんか大学生ってさ…、ガキっぽいよな」
それらの発言がHやSの精一杯の強がりであることは当時から気づいていました。しかし私は一足先に社会人となって己の食い扶持をまっとうに稼いでいる彼らに一目を置いていたし、彼らの見ている世界から、そして考えている事柄から学ぶべき所も少なからずあると思っていました。つまり彼らはある意味で人生の先輩である、だからどこか大人びている…、そういう自身の感覚に対して私は素直に従っていました。そんな彼らが口を揃えてスタジャンに嫌悪感を抱く。それって…?
その時以来、私には彼らの言葉が気になってしかたありません。「オレのスタジャンの何がいけないんだ?」…、を考え続けていました。そして改めて、高卒で働き始めた彼らの最初の4年間を想像してみたのです。すると…、なんとなく見えてきました。想像の中で襲ってきた心情は…、「恐怖」と「焦り」でした。そしてその時の私の想像は当たっていたのです。
30才を過ぎた頃、Hと二人でお酒を飲む機会があって、私はHのあの時の発言…、つまりスタジャンに対する嫌悪感を吐露したことの真意を尋ねたんです。そしたらHはしみじみと言いました。「あの頃はとにかく22才になるのが怖かった…」「んっ?」「だってそうだろ、22才ってのはさ、お前らが大学卒業して社会人としてデビューする年齢だよな」「あぁ、そうだな」「すんげぇ~怖かったんだぞ、お前らと一緒に働くってことがさ…、なんかもうオレなんか、アッという間に抜かされちゃうんだなって思ったんだ…」
その後、私はHを抜いたのか? んっ? 抜くって何を? そんなのどうでもいい。Hは今でも私の幼なじみであり親友…、そして立派に歳をとった。抜くとか、抜かれるとか、そんなもんどうだっていいじゃないか! と私は本当にそう思っている。
しかし心の中のHは「違う!」という。
「オレにないものをお前は持っている…、お前には『スタジャン』がある!」
その意味をかみしめながら、そこに横たわるデリケートを私は今こそ、高校生に伝えなければならないと思っているんです。
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