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スタンフォード監獄実験と体育会。



スタンフォード監獄実験とは、1971年、アメリカのスタンフォード大学心理学部で実施された有名な実験です。

一般公募で集められた「普通の人」(21人)を刑務所(を模して作られた実験場)という特殊状況下に置いて、それぞれに役割を与えた場合、人はその与えられた役割によってその言動に「どのような変化」が見られるのか…、という趣旨の実験でした。

11人を看守に、10人を受刑者に見立て、実際の刑務所と同じ設備を作って演じさせたのですが、時間が経つにつれ看守役の被験者はより看守らしく、受刑者役の被験者はより受刑者らしい行動をとるようになることが証明されたといいます。

ただし後に問題となるのですが、この実験にリアリティーを与えるために、例えば受刑者(囚人)役には、片足に常時南京錠がついた金属製の鎖が巻かれたり、看守によって午前2時に突然起床させられて強制点呼を行ったり…、という敢えて非人道的かつ非現実的な環境を作ったことでした。

よって実験の効果は実験開始から数日後には出始めたといいます。具体的には、看守は誰かに指示されるわけでもなく、自ら囚人役に罰則を与え始めるのです。反抗した囚人を独房に監禁したり、排便をバケツにするよう強要したり、その他、囚人たちが屈辱を感じるような行為を看守役の被験者が、むしろ積極的に行っていたといいます。

もっとも現在では、この実験に参加した被験者の一部が、公式に発表されている実験結果と実際の実験現場とでは、少し様子が違っていたという証言をしていますから、この実験結果だけをもって「人の行為」と「役割・肩書き」との間に明確な相関関係が存在するということを証明することはやや危険であるような気がします。

そうは言っても、「人の行為」と「役割・肩書き」との間には相関関係がありそうだ…、という心当たりなら私にもあります。

現在でも少しだけ残っている日本企業の慣例として、職場内に一定数の「体育会系社員」が配属され、案外と活躍しているケースがあります。この「体育会系」とは、実際に大学の「体育会クラブ(部活)」に所属していて、その経験がアドバンテージとなって採用試験で合格を勝ち得てきた社員のことを言います。実は私も体育会出身で、しかも「主将」でしたから、何ら就職活動することもなく大学当局が就職先を用意してくれていました(その後、私は教員を選んだのでその就職話は辞退しましたが…)。そのくらい「体育会出身者」は重宝されたのです。

では、なぜ「体育会出身者」は重宝されるのでしょうか? そのカギを握っているのが「人の行為」と「役割・肩書き」との相関関係なのです。

大学の体育会とは、ある意味で当時(高度経済成長期~バブル崩壊までの時期)の日本の企業社会を凝縮し、さらに濃縮したところの「擬似的社会空間」でした。つまり大学の4年間で、たとえば会社員が経験する30年間分の「役割・肩書き」を擬似的に経験します。1年ならば「新卒」「ペーペ-」というだけの肩書き、2年になると「係長クラス」の肩書きとやり甲斐のある待遇が付随します。3年になってからは「課長~部長クラス」の肩書きとなりますから、その配下には部下がたくさんできて組織内の差配を任されたりする立場となります。そして4年ともなれば、その中から「社長」や「取締役」が輩出されますから「重役クラス」の肩書きです。

この擬似的階級社会をもっとわかりやすく言い換えると、1年生は「パシリ」「兵隊」で、どんな理不尽な命令にも従って全身全霊をかけて組織のために忠実に働きます。2年生は典型的な「中間管理職」です。上からの命令・指示を実行し、その結果が求められますからストレスも貯まります。その貯まったストレスを配下の1年にぶつけて解消するといった具合です。3年生には、組織の重要な案件に対する「会議=話し合い」に参加する権限が発生しますので、自己決定権の一部が委譲されてだいぶストレスからは解放されそうですが、逆に責任は大きくなります。そして4年生は…、もう毎晩銀座の高級クラブで「交際費」をバンバン使いながらの豪遊って感じですね。

このような暗黙のうちに「役割・肩書き」に見合った「人の行為」を学生時代に予め身につけた上で社会人となるのですから、企業としては組織運営上「体育会系」は扱いやすく、また上司のウケもいいわけですね。しかしもうお分かりのように、こういった人材はその社会人生活を「思考停止」状態から始めます。思考停止のまま役割に邁進することが「是」なのですが、実はそういったマインドこそが、かつて日本経済を牽引した「企業戦士」の実態です。そしてこのような「企業戦士」は今ではほとんど必要とされていないように見えますが、実のところでは、現経営者の中には「体育会系マインド」を懐かしみ、その精神があってこそ企業の生産性は向上するのだ!と信じて疑わない人々も依然として存在するんです。当然、そういった企業は「ブラック企業」として労働者からは見向きもされず、いずれは淘汰されるでしょうが、デフレ経済の基調の中で、「ブラック企業」的な経営が一時的に延命されることだって否定はできません。

さて問題なのは、そういった「体育会系マインド」が伝統的に学校組織に及んでいて、こちらの方が企業のそれに比べて厄介な存在になっているってことなんです。

確認しますが、教員だって採用されて数年間は「ペーペー」なわけですが、いきなり授業を任される、担任を任される、部活顧問を任される、という点に関して言えば、その責任と同時に自己裁量権・自己決定権を与えられた特別な存在となります。従って「ペーペー」にも関わらず、子どもたちに対するその肩書きは「課長・部長」クラスなんですね。

ここで勘違いをする教員が多いのですが、自身の前にいる児童・生徒に対して「課長・部長」の肩書きをもって接する、つまりは支配しようとするんです。だから「ペーペー」のくせに突然自身にひれ伏すような態度をとる子どもたちを前に、ホントは少し、いや、かなり戸惑うのですが、そして戸惑っていいのですが、「無条件に子どもたちがひれ伏す」…その状態を「是」とする文化が学校にはあるんです。それをわかりやすく言えば、「何はともあれ子どもたちの秩序を守り、問題を起こさせないこと」が教員にとっての至上命令ですから、手法はともかく「子どもたちをおとなしい状態」にさせることができる教員が「できる教員」としての地位を得るわけです。

その「できる教員」、正確に言えば「できる教員であると管理職が見做す教員」に体育会系が多いのは事実です。つまりはどんなに理想が高く、専門的な知識が豊富であっても、目の前にいる子どもたちを「束ねる力」がなければ「できる教員」としては評価されにくいのですね。だから真面目でおとなしい教員は「体育会系教員」のテクニックを徐々に見倣っていきます。よせばいいのに「強面」(こわもて)を演じるようになるんです。

意外なことかもしれませんが、体罰をしてしまう教員というのは、この伝統的体育会系の教員と同じくらいの割合で、後付けで「強面」を演じ始めた教員に多いんですね。まるで体罰とは縁がなさそうな案外弱々しい教員が体罰をしてしまう。そういった状況に私も何回か遭遇したことがあります。そしてさらに厄介なのは、そのような教員が体罰を経験すると、それに酔ってしまう傾向、つまり体罰を繰り返す傾向があるということです。誤解を恐れずに言えば、自身に発生した特別な力(権力)を行使して(ひょっとしたら人生で初めて)快感を得ているのかも…、と疑ってしまいそうな教員を何人か見てきました。

「役割・肩書き」には、「人の行為」を特別なものに変換させる力が、きっとあります。そのことに無頓着なままでは、会社でも学校でも「勘違い上司」や「勘違い先生」は、この先も後を絶たないでしょう。

で、どうすればいいのか…ですが、こればかりは精神論ではどうにもならないでしょうね。だからそれまでの「カタチ」を劇的に変えなければなりません。組織の中における「役割・肩書き」を定期的、かつ強制的に変えればいいんです。たとえば「課長・部長」でありながらも、定期的に「ペーペー」に戻ってみる…、そうすれば「ペーペー」の世界からの景色を思い出すでしょう。そして教員は、定期的に「教える」を止める…、これには学校をあげた、いや自治体や国をあげた取り組みが必要ですが、北欧諸国などではすでに実践されていて、教員を定期的に大学院に戻して最先端の教育理論を「教わる」立場へと変えてあげればいいんです。「教える」から「教わる」へと「役割・肩書き」が変われば、やはり見えてくる景色も変わってきますね。

いずれにしろ、未だに「ブラック」にカテゴライズされている企業や、その「ブラック」の権化のような職場である学校が、その運営上で「体育会系的マインド」に依存している状態では何も変わりません。

体育会系的なまとまり、上下秩序が必要な状況というのは確かにあります。地域社会や学校での伝統的行事や〇〇訓練なんかには、そのような力(能力)が必要です。その力(能力)が地域や学校を支えている一助になっていることにも異論はありません。

問題なのは「体育会系的マインド」と、それに付随する「役割・肩書き」に必要以上の権力を与え続けている、旧態依然とした日本型組織を、それでも継承しようとする人々の存在なんです。

 
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