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ちょっと卑屈な「権威主義」。



憲法における天皇の国事行為のひとつに「栄典の授与」があることは知っています。ただ戦後の天皇には一切の政治的権力がありませんから、この「栄典の授与」に関しても常に「内閣の助言と承認」が必要となります。過日亡くなった中曽根元総理大臣が授与されたことでも有名な「大勲位菊花章」を筆頭として旭日章や瑞宝章など、いずれも国家や公共のために著しい功労が認められた人々に授与される…、そういうことになっています。

ちょっと調べてみたんですが、勲章と褒章(=栄典)には13種類が存在するみたいで、春と秋に授与が行われて、なんと毎年9000人もの人々がその名誉に服しているといいます。「文化勲章」や「紫綬褒章」などは比較的に馴染みのあるもので、たまに芸能人なんかが授与されたりもしていますね。

で、問題なのは、それらの叙勲者の実に7割が「公務員」であるという事実です。特に教育功労者という理由から、国立大学では名誉教授が、公立高校や中学校・小学校では元校長が、毎年大量に瑞宝章を授章しています。都道府県の〇〇協会などのスポーツ関連団体の会長等も軒並み名を連ねていますが、面白いのはその「瑞宝章」の中にもランクがあるみたいで、5階級に分類されています。国の教育・科学機関の代表(理事長等)の経験者には、瑞宝章の中の最上位が与えられるのは何となくわかるような気がするのですが、大学の名誉教授には上から2番目が与えられ、高校の校長経験者には3番目、中学・小学校の校長経験者には4番目~5番目としている不文律には、少し笑ってしまいました。同じ校長にも「序列があるんだ!」ということを知った時、何にでも序列をつけたがる日本人特有の「性(さが)」のようなものを感じてしまったわけです。

しかし公立の校長経験者であるからという理由で、誰でも授与されるわけでもありません。そこにもちゃんと「序列」があって、校長職にあった時に何の瑕疵もなく(←ココとても重要です)定年を迎え、現在70歳以上の校長OBの中から「順番に」(←ココも重要です)叙勲の名誉が廻ってくるんだそうです。つまり有り体に言えば、70歳を過ぎた頃から自身がおよそ何歳位に叙勲されるのかの見当がつくんですね。そんでもって(コレもとても重要ですが)、教員の場合の叙勲はほとんどが特定団体(ということは教育委員会)からの推薦であり、申請に必要となるとても面倒な資料や推薦理由(推薦書)もバッチリ教育委員会(内の実行部隊)が準備してくれるんですね。毎年の年中行事ですから、教育委員会の事務局(ココが教員により構成される教育委員会の本丸です)は、それを専門に行っている部署が存在するのかどうかは知りませんが、少なくとも水面下では「叙勲チーム=実行部隊」が結成されて、その年の叙勲候補者への叙勲がスムーズに行われるための運動行為(推薦人集めや署名活動)もあると聞いています。

教育委員会の事務局といえば、その中から近い将来の校長が輩出されるワケでして、自らの先輩校長(OB)をスムーズに叙勲に結びつけるという行いは、いずれ自分も後輩によって叙勲へと導かれる行為ですから、彼らにとっては最重要事項になるわけです。

アナタたちはいったい何をしているんですか?

アナタたちの向いている方向ってどっちなんですか?

アナタたちがホントに欲しいのは「勲章」なんですか?

アナタたちはいったい何のために教員となり校長となったのですか?

そのように問いかけてしまいたくなるのは私だけでしょうか。教育者としての最終ゴールが「勲章」だなんて…、薄々は感じていましたが、こと実態を調べてみると同じ地域の校長仲間から「叙勲者」を絶やすことなく連綿と輩出し続けようと必死になる彼らの涙ぐましい努力は、実に生々しくもあり痛々しいのです。学校が「事なかれ主義」に支配され、前例踏襲主義から脱することができないことの最大の理由が見えたような気がします。学校を率いる最高責任者である校長が決して「瑕疵を負わない」ようなシステムになっている…、それが公立学校の現状でしょう。

そのような旧態依然とした学校のカタチを変えようとした、または変えようとはしなかったが確信的に疑問をもちながら公立の校長を続けてきた「元校長」である知人が、私の周囲には数人います。その方々が口を揃えて言うのは、教育委員会と学校教育現場の「権威主義」ほど堅い岩盤はない…、ということです。そして、その「権威主義」を一番最後のところで担保しているのが、どうやら「勲章」であることは疑いようのない事実ですね。

この国は明治維新によって政治的・経済的な近代化を達成してきました。しかしその過程で旧特権階級の処遇にかなり苦労したようです。旧貴族や旧大名のような旧特権階級と明治維新に功績のあった人々を同じテーブルに載せて、いずれも新特権階級とした「華族制度」の創設は、どうやら苦肉の策のようでしたが、人間というのはどうも特別な権威に裏付けられていることで初めて自身の功績や地位に示しがつくみたいで、1000年以上も前に成立した「位階」が、21世紀の今でも健在であることからも「権威主義」がはびこっている様を伺うことができます。

ちなみに「位階」とは、奈良時代に確立した役人階級のことで、あの聖徳太子が制定した冠位十二階の制にその起源があります。貴族政治全盛の平安時代までは、それなりに位階による序列も機能していたのでしょうが、武士の時代になると「位階」は単に貴族社会の家柄を示すだけのシンボル的な存在に落ち着いていくんです。それでも新興勢力であった武士は、貴族にだけに認められていた「位階」を、そして形式的にその「位階」に応じて与えられていた「官職」を、その実態はどうであれ「名前だけ」欲しがるようになるのです。例えば貴族政治とはまったく縁のないはずの江戸時代の大名たちも「〇〇藩主」という地位だけでは飽き足らずに、敢えて「従5位・大和守」などという官位・官職を朝廷にねだったりしているんですね。その行為を幕府も追認していて、大名たちの希望をわざわざ取りまとめて朝廷に推薦していたらしいのです。涙ぐましいですよね。

この「位階」ですが、現在では8階級が残されていて、原則では何らかの功績があった人の死後に追って授与されるみたいです。生前に無駄な特権意識を持たせないようにする配慮から「死後」なのでしょうが、その代わりに生前には「叙勲」をして、人々の功績を国家として「褒める」のですね。

ところで昨今の世間を騒がせている政治的案件として「日本学術会議」なるものが浮上していますけど、なんでも菅総理は、学術会議のメンバー選考にいちゃもんをつけた…、けしからん!ということらしいのです。伝統的には、学術会議のメンバーは様々な研究ジャンルの学者たちによる推薦によって政府に提案され、それを総理大臣がただ黙って追認するということらしいのですが、そこに菅ちゃんがメスを入れちゃったんですね。日本学術会議の方々は「学問の自由の侵害だ!」などと息巻いているみたいなんです。でも日本学術会議のメンバーって政府直属の会議で、その身分は「公務員」扱いなんですね。じゃぁ、菅ちゃんが任命権者であるわけで、別段にその選考に口を挟むことが「けしからん!」ということにはならんでしょうに…。別に私は、菅総理のシンパではありませんが、あの菅ちゃんっていう総理…、もっとずっと先のことを考えてる節があるんですね。この国の政治システムの問題点を炙り出して、霞ヶ関と永田町をクリーニングしようとしているのではないか…、そんな気がします(この件に関しては項を改めて論じたいと思いますが…)。

つまり、私には日本の学者たちの最高峰(?)であるところの「日本学術会議」も「権威主義」に凝り固まっていて、もうどうにもならないくらいに中身が腐敗しているのかな?…、政府にまともな助言すらできないただの隠居老人団体になっちゃったのかな?…、だから政府のメスが入ったのかな?…、などという一部の人々による憶測に納得がいくのです。

「学問の自由」が大切なら、そして「学校教育」が大切なら、学者や校長はもっと国家から毅然とした場所で理想を語らなければ説得力に欠けます。「叙勲」が最終ゴールだなんて、金輪際考えてはいけません。教育者としてカッコ悪いです。同時に「学術会議のメンバー」などという称号をもらって、アカデミーの世界でふんぞり返っているだけ(?)の学者なら、そんなの不要です。民間の研究機関が政府と連携してアドバイスを上申すればいいんです。その方がスッキリします。

しかし残念ながら、学者も教育者も「実は権威に弱い」…、そのことに改めて気づかされる今日この頃でした。

 
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