オルタナティブ思考。
遠い昔、40代の頃の私は、定期的にCDショップに出向いて、気になる音楽CDを物色してはまとめ買いをしていました。音楽のジャンルは問いません。クラシックからロック、ジャズと幅広く聴いていましたので、とにかく「いいものはいい」という自身の目利き能力だけを頼りにコレクションを増やしていたのです。
と、そこに「聞き覚えのある」「妙に懐かしい」「とにかく心地よい」と思わせる雰囲気の楽曲が流れてきました。瞬間、CDショップの店内に響くその楽曲に、私はデビッド・ボウイを関知しました。高校時代からデビッド・ボウイに心酔し続けている私は「新しいアルバムが出たのか?」と急に色めき立ち、店員に「今、流れているデビッド・ボウイのアルバムが欲しい」と告げました。
「デビッド・ボウイ…ではありませんが…」と店員は冷たく私を突き放し、「今、店内に流れているのはコレです」と、私の目の前にCDジャケットを差し出します。そこには「CAKE」…、ケーク?…、最高にイケてるローテクバンド…、オルタナティブロックに新星現る!…、みたいなキャッチフレーズが書かれていました。低音で気だるく歌う…、その感じ、全体的に伸びきった印象を与えるギターやベース、それにフォーンセクション…、まさにデビッド・ボウイの初期の楽曲における路線を踏襲するバンド「CAKE」に私は魅了され、またひとつコレクションを増やしていったのです。
「オルタナティブ」という単語を意識したのはこれが初めてでした。「もう1つの…」とか「〇〇以外の…」とか「既成のものではない…」などと訳されているようですが、まさに「CAKE」の楽曲は1960年代のイギリスロック界の混沌から誕生したデビッド・ボウイの如く、クラシック音楽にもカントリーミュージックにもどこかで通底する要素をもった「古いけどどこか新しい」…、21世紀としては「オルタナティブ」なジャンルのロックと言えるでしょう。そう、その感覚はちょうど70年代のジャズ界にフュージョンジャズを引き下げて新星の如く現れた「クルセダーズ」を彷彿とさせます。そしてこのフュージョンも、当時としては「オルタナティブ」なジャズではあったのです。
デビッド・ボウイ、クルセダーズ、CAKE…、それらの音楽はそれまでの「既成」を克服して誕生した…という点に関しては共通しています。しかし登場した時点では「オルタナティブ」であったこれらの音楽も、時間の経過と共に「新しい既成」となっていくのです。よって「オルタナティブ」というジャンルの概念は、こと音楽界においては流動的であり、だからこそ常に「オルタナティブ」には革新性が伴うのです。クラシック音楽界においても19世紀末にマーラーを先駆としたオルタナティブ運動(きっとそう呼んでもいいと思いますが…)が起こり、それがドビッシーやストラビンスキーに受け継がれていきます。そう考えると「オルタナティブ性」というのは、時代を牽引する原動力のようなものであり、人々はその力に導かれて文化だけではなく、社会や制度に革新をもたらしてきたのです。
日本では、今、安倍政権が幕を閉じようとしています。8年間にもわたる第2次安倍政権は、その功罪はともかくとして、政治イデオロギー的には保守勢力を完全に復権させ彼らに勢いを与えてきました。ところが逆に経済イデオロギー的には「大きな政府」を志向して左派政治を彷彿とさせながらも、どこかで新自由主義経済(競争経済、格差容認経済)を引きずっている…といった奇妙な経済政策となっています。保守的・右翼的ではありますが、しかし同時にリベラル・左翼的でもある…、それが安倍政権でした。9月2日時点で次の総裁が誰になるかは予断を許すことはできませんが、誰が総裁(後に総理)になっても、今次の安倍政権のスタンスを継承することになることは間違いないしょう。
それはなぜか?
安倍政権が、完全に大衆を意識した政治を展開してきたからです。一部には「反安倍勢力」も確かに存在しましたが、実は大方のところでは安倍政権の諸政策、は大衆の総意によって実現されたものであると言っても過言ではありません。そのくらい安倍政権は「大衆」=「世論」を意識していました。ちなみにここでいう「大衆」=「世論」というのは、メディアから発信される「やや反安倍的な主張」とは少しズレたところに位置するものです。メディア、特にマズメディアともなると、その性格上、常に体制からは距離を置いたネガティブな主張を展開しがちです。その方が国民に「刺さる」からです。よってメディアの主張を大衆の世論と同一視することはできません。
安倍政権の、とりわけ外交と国防に関して、それに異を唱える人々は少数派です。大衆世論は親米の立場から、中国を警戒し、韓国に疑念を抱きます。そして北朝鮮には敵意をもって接しているのです。その大衆世論を巧に汲み取って安倍政権は、例えば中国や韓国には「強い日本」を見せつけました。その一連の強硬路線に大衆は「納得」し、そして「溜飲を下げる」のです。だから国防力の強化に関しても、実は大衆は寛容になりました。日本が名実ともに「強くなる」ことを人々が志向しているからです。
それこそが保守勢力の目指す「日本のカタチ」です。保守勢力が長年抱き続けてきたその思いが、やっと「結実した」…のです。そして安倍政権は、彼らにそう思わせることで日本人の自信とアイデンティティーを取り戻したのであると私は理解しています。
この政治的な保守化の動きは、よくよく眺めれば職場や学校の現場にも顕著に現れています。どの職場においても、リベラルは急激に影を潜め、どことなく肩身の狭い思いをし続けています。10年前には普通に飛び交っていたリベラル的言質は、その発言自体がまるで「非国民」扱いされてしまうことすらあります。それほどまでに世の中は「保守>リベラル」の構図に変わってしまったのです。
よって「保守」は、今や「体制」です。
「寄らば大樹の陰」と言うように、大衆は「体制」に引きずられていきます。私たちは、自由に自身のイデオロギーを選択しているのではなく、実は体制によるプロパガンダを受け続けながら、無意識下で体制側に従ってしまう…、という性向の下にあります。プロパガンダ、それ自体を否定するつもりはありません。大衆を正しい(と思われる)方向に導いていこうとする政治が、人々を一定方向に向かわせるような権力行為、それ自体が政治権力なのですから、そして私たちはそういった政治権力を行使する「権利」を現政権に(選挙によって)与えたのですから、そのこと自体を悪く言う必要はありません。
しかし問題なのは、ただ体制の発するシグナルに何の検証もなく無意識に従い続けてしまう大衆の心象のあり方です。あまりにも肥大化した「体制」を前に、それに異を唱えることはもちろん、疑義を呈することすら憚れるような社会にあって、例えば、まったく別な「社会の景色」を見ようとする人々が…、きっといるはずです。「体制」の裏側の景色、「体制」の遙か先の景色…、そういうものを希求している人々こそ「オルタナティブな思考」の持ち主なんです。
前述したように、現行の保守的政権はこの後もきっと続くでしょう。それが大衆にとって気持ちのいい社会を実現させてくれるからです。それでも一部の大衆(政治的マイノリティー)にとっては、その社会は決して居心地のいい社会ではありませんね。よって彼らは「反体制」の立場を打ち立てます。それを政権野党が導いていくのですが、本当にそれだけの構造でいいのでしょうか?
体制でもなく、反体制でもない…、そう今こそ「オルタナティブな思考」で、まったく新しい社会を模索することもできるのではなでしょうか。そしてそういった思考法は、あなたの職場にもきっと有効です。人々の思考の中に新たな風を吹き込む…、そのための「オルタナティブ思考」なのです。
「オルタナティブ〇〇」…、これが今後のトレンドになりそうです。
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