「教える」なら、「教われ!」。
現在は高校の非常勤講師の身ではあるものの、私の教員生活はなんと39年目に突入してしまいました。何事も「過ぎたるは及ばざるが如し」と言いますように、私の教員としての「旬」はとっくに過ぎ去っているのであり、その後に続くはずの教員としての「最盛期」も、誰にも気づかれることなくきっとどこかで消費されていったのでしょう。
50歳を過ぎた頃から数年間、私は研修部主任という肩書きの下、学期毎の「教員研修」や、若手(新人を含む)の教員を対象とした「新任教員研修」を毎月行ってきました。しかし今、改めて考えてみると「なんと無謀な」「なんと傲慢な」任務を引き受けたものだ…、という思いが私を苛み、身が縮む思いです。
研修部を任されていた頃の私は、きっと「教える」ということに慣れきっていたのです。だから「教える」ことになんら恐れを抱かず、生徒のみならず教員にまでマウントポジションから「教える」を強要していました。再度言いますが「過ぎたるは及ばざるが如し」…、教えすぎはダメです。必ず己に弊害をもたらします。
私自身、もしも自分で自分を褒めることができるとしたら、そのタイミングで「教え続ける」ことの弊害を自ら悟ったことでしょうか。誰かから言われたわけではありません。自身の内なる声が「教え続ける」ことの「傲慢」を知らせてくれたのです。
その瞬間から、私は教員としてのスタイルを180度変えてみました。「もう教え続けるのは止めよう、これからは教わる立場を極めようではないか…」と内なる声は私に命じました。まさに私の中における「コペルニクス的転回」現象です。教員として「教える」ことを最小限に抑えて「教わる」ことに転回するには、それなりの工夫が必要になります。
まずは以前から気になっていた(生徒から評判が良かった)先生の授業に参加してみました。授業見学ではありません。生徒に混ざって同じ目線から授業を受けてみたのです。当然に毎回実施される「小テスト」=「大学入試過去問題」にも参加します。空き時間の都合で週に2時間ほどの参加となりましたが、その経験から私はとてつもなく重要なことに気づかされます。とてつもなく重要なこと…、それは「できない!」「わからない!」という恐怖と焦燥を伴った感情に私が久々に襲われたことです。
そうなんです。
未だ私が何ものでもなかった若造であった頃までの二十数年間、私の感情の中に確かにあった「できない!」「わからない!」という恐れと焦りを私は思い出すことができた…、それを他人の授業が私に教えてくれたのです。私たちは、この「できない!」「わからない!」をどこかの地点でいずれ克服し、今日に繋げています。教員などという職業は、子どもたちの「できない!」「わからない!」を正しく汲み取ってあげて、子どもたちが「知の世界」から遭難しないようにそれを克服する手助けをすることが本来でしょう。しかし、そもそも教員の中には「できない!」「わからない!」をほぼ経験しないまま教壇に立っている人々が多数存在します。そして残念ながら、そういった教員には子どもたちが発する「できない!」「わからない!」という信号を受け取ることができません。「できない?」「わからない?」…、なんで?…、となるわけです。
「できない!」「わからない!」に出くわした時、人はその恐怖と焦りから、まず鼓動が高まります。そして異常な発汗と目眩(めまい)…(ウソじゃありません、本当のことです!)…に襲われるんです。さらにそれが高じると、確実に自己肯定感が瞬間的に下がります。「その場にいたくない」「消えてしまいたい」、ならまだしも「死んでしまいたい」と思うことすらあるんじゃないでしょうか。ここで私が「あるんじゃないでしょうか。」としたのは、大人になってからの私には「できない!」「わからない!」から「死んでしまいたい」とする極端な感情に繋がったことがないからです。大人になる手前の段階(大抵は青年期)で、人には社会との軋轢から生じるストレスを解消するための「防衛機制」が備わりますから、「死んでしまいたい」と思う前に、例えば「こんなのできなくたって、こんなのわからなくたって大したことではない!」とする感情が発生し、無意識のうちに自身の「心」を防衛する…、人間とはそういう生き物なんですね。
だから、私が久々に出会った「できない!」「わからない!」という感情は、通常ならば特別な感情…、特に自身を追い込むような負の感情とはなり得ず、大抵の場合は、そういった感情をスルーしながら日常生活を送っているんです。
だけれども、教員はそれではダメだ…、って私は思いました。私たちが相手とする生徒(子どもたち)の防衛機制は未だ未熟か、或いはまだその片鱗すら形成されてもいないからです。
ということは、私たち教員(教員以外でも指導的立場にある人々)は、つねに「できない!」「わからない!」という感情を至近距離から感じ取りながら日常生活を送り続ける必要があります。だから「教える」という日常的な行為は、一端脇に置いておいて「教わる」ことを常態化する必要があるんです。「教わる」…、できれば「まったく未経験な何か」を一から「教わる」ことが理想です。
私の場合、その「まったく未経験な何か」が「ホットヨガ」でした。そして「心理学」でした。現在では、それが「IT分野」であり「マーケティング」でもあります。したがって現在でも、私の中には「できない!」「わからない!」がたくさんあるんですね。けれども、この「できない!」「わからない!」を少しずつ克服していく過程に「生きる目的」を見いだしていることも事実です。
世の中で、何ものかを「教える」立場にある方々にお勧めです。
「できない!」「わからない!」を体感してみてください。それには「教わる」ことなんです。
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