ルサンチマンの正体。
前回のブログでは、戦争体験者であった私の高校時代の担任、O先生が私に与えた影響について紹介しました。「自分の頭で考えろ!」「決して管理される側の人間にだけはなるな」、そうでなければ「お前たちもあのクソみたいな戦争に簡単に駆り出されてしまうぞ」・・・、何年後かにその本当の意味を理解するであろうと思っていたのでしょうか、O先生は私たちにそんなメッセージを遺しました。
ちなみに私にはいわゆる恩師と呼べるほどの人物はいません。O先生を初め、中学時代の担任S先生、今回のブログで紹介するY先生・・・、それらの先生方に結果的に私は多大な影響を受けることになるのですが、これらの先生方を私は「恩師」だとは思っていません。なぜならばそれらの先生方は、おそらくは3人ともが、関わった生徒からいずれ「恩師」と呼ばれるような生き方をしていなかったからです。つまり三者に共通するのは「自由人」であったということです。教師である前に「自由を生きる人間」であったのです。だから「恩師」などという定型の肩書きは、きっと「気持ち悪いからやめてくれ」と思ってしまうタイプの人間であると、私は勝手に思っているし、実のところ私も、この3人の先生方と同類の教師としてできあがってしまったのですから・・・、「恩師」とは呼びません。
高校2年の冬、ウエルター級の世界王者として名を馳せていたプロボクサー輪島功一の全盛期はもうとっくに過ぎていた・・・、日本人の誰もがそう思っていました。韓国の強敵柳済斗にタイトルを奪われ、メディアも国民も「炎の男」輪島功一は、もう引退するであろうと疑っていませんでした。ところが輪島はリターンマッチを決断します。しかも敵地韓国での対戦です。柳済斗とのタイトルマッチで派手にKO負けしていた輪島ですから、このリターンマッチに「勝ち目はない」「無謀だ」と誰もが輪島を心配したものです。
敵地韓国の試合会場は異様な盛り上がりをみせていました。柳済斗は国民的英雄です。しかも相手は元宗主国の日本人・・・、テレビから中継される映像からは韓国人観客の誰もが柳済斗のKO勝ちを信じて1R目から大歓声です。その映像を視ていた日本人は、前回の試合同様に何度もクリーンパンチを浴びながらもしぶとく粘る輪島に一縷の望みを込めて声援を送ります。そして死闘を繰り広げながらなんとか輪島は最終ラウンドにまでこぎつけました。15R・・・、そこで奇跡が起こります。確か輪島の右ストレート・・・、それが柳済斗の顔面に炸裂し、柳済斗はダウン・・・、輪島のKO勝ちです。
が、輪島勝利の瞬間からのテレビに映し出された光景を今でも私は忘れることはできません。試合会場が怒号の渦と化したのです。韓国人観客は荒れ狂っていました。日の丸が会場内で焼かれる光景を中継テレビが映し出します。「なんなんだこれは・・・」「日本ってこんなに憎まれてんのか?」高校生の私には理解ができません。そんな複雑な思いを抱きながら翌日、学校に行きました。
1時間目は倫理社会の授業でした。担当はY先生。O先生の盟友です。風貌はまるでカール・マルクスそのものでした。顔面全体に髭をたくわえ、巨漢を揺らしながら低いバリトンの声で哲学を語ります。正直なところ誰も哲学などに興味はなく、真剣には聞いていませんし、先生もそんなことは期待していないようでした。お互いに教師と生徒の領分を超えない範囲で「倫理」の授業は毎回なんてことなく過ぎていったのです。
そこ(授業中)に回覧文が廻ってきました。プリントの裏面を使った自由記入形式のものです。テーマは「キミは昨日の輪島戦で韓国人が怒っていたことをどう思うか」です。私の所にその回覧文が廻ってきた時には、すでに5~6人分の記入がなされていました。その内の1人の文章に私は衝撃を受けました。その文章には戦前の日本帝国が韓国を植民地にしてきたいきさつと、その植民地政策に対する韓国人の複雑な感情が綴られていたのです。後で分かったのですが、それを書いたKは在日韓国人2世でした。「日本人は韓国人の本当の哀しみがわかっていない・・・」そんな内容で締めくくられていたKの檄文を読んで、何も知らなかった、そして今まで何も知ろうともしなかった自分を私は大いに恥じました。
何も書き込めずただうつむいていた私の手から、その回覧文をY先生が取り上げました。教室は一瞬にして静まりかえります。Y先生は無表情のまま記入されていた文章を読んでいます。そして一言・・・、「これがルサンチマンの正体だ」と静かに言ったのです。「ルサンチマン?」私は、そして私たちは誰もが初めて耳にするその単語の意味を知りません。「まずはニーチェから始めなさい」と言ったきり、Y先生はその場(教室)から退場したのです。
私がY先生から受けた影響のこれが最初の出来事です。そして今ならわかります。Y先生は「その瞬間」を待っていたのです。高校生が何かのきっかけで思想の、そして哲学の一端と出会う瞬間を・・・、きっと待っていた・・・。高校生、(誤解を恐れずに言えば)特に男子とはそういう生き物なんです。教科書に載っているような既成の知識では飽き足らない、もちろん受験テクニックとは無縁の「生きた学問」を真剣に求める瞬間がきっとおとずれることをY先生は、確信的に知っていた。だからその瞬間のために毎時の授業で「知の種を蒔いていた」・・・、私はそう思っています。
翌日から私のクラスではニーチェが読まれ始めました。そして語らいが始まりました。「ルサンチマン」という言葉とともに、私たちの中にも「あの戦争」を思い、「あの戦争」を深く考える・・・、そんな時が流れ始めたのです。同時にY先生は、私たちの知性の先達となりました。思想・哲学、そして「戦争」をY先生に問う・・・、そういう行為が私たちの日常になったのです。
私たちは、Y先生の掌(てのひら)の上で学問の本質を思い知らされたのでした。
激戦地で有名なガダルカナル島での生き残り兵だった・・・、とY先生は言います。「拾った命だ」とも言っていました。そのY先生が高校で「倫理」を教える・・・、それってきっと偶然ではありません。Y先生が「拾った命」で、体を張って私たちに伝えたかったこと・・・、そのことを今度は私たちが、その一㍉でもいいから次代に伝えなければいけない・・・、そんな責任を感じるのです。
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