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労働者の「囲い込み、囲い込まれ」をヤメよ。



会社員や労働者に対して、最近のメディアではそれらを「ビジネスパーソン」と呼称するケースが増えてきました。当初、この呼称について、私は微妙な違和感を抱いたのですが、それは「ビジネスパーソン」と括ることで、経営者と労働者を擬似的にフラットな土俵に乗せることで、彼ら労働者から「労働者性」を奪い、本来の労働者が有する諸権利について、それを見えにくくする人為的作為を嗅ぎ取ったからです。有り体に言えば、経営者と労働者の無駄な緊張関係を排除したところの、つまりは労働組合を事実上骨抜きにし、結局は経営者にとって都合の良い労働組織体に見せかけるための環境作りのための「ビジネスパーソン」なのではないかと思ったのです。

しかし、私のその考えはやや拙速であり杞憂でもあったことを認めます。

では、メディアはなぜ「ビジネスパーソン」を使用し始めたのでしょうか。それは当初の私の杞憂とは裏腹に、メディアが日本の会社員(労働者)の企業からの独立性を早々に察知し始めたからではないか、と現在では思っています。ただ、「労働者の企業からの独立性」とは言いますが、その気配は感じるものの、実際には「独立性」そのものが社会的ムーブメントには未だなり得ていません。もしもそのような「労働者の企業からの独立性」が常態化するようなことになれば、日本の労働市場は劇的に流動化するでしょうし、欧米諸国のように自身のキャリアコントロールを自身でマネージメントする環境が揃うのです。



新卒者一括採用からの終身雇用制度、年功序列型賃金制度…、それら古典的な純日本型の雇用形態は、徐々にではありますが、それを見直そうとする社会的風潮が芽生えてはきています。しかしその社会的風潮(要請)の芽生えは、今から30年近くも前、つまりバブル崩壊をきっかけに始まったものです。逆の言い方をすれば、日本社会は、30年経ても「新卒一括採用」「終身雇用制」「年功序列型賃金」を捨て去ることができなかったのです。

日本社会には、特に内向性が強く「よそ者を警戒する」…、という排外的な閉鎖性が存在します。農村を基盤とする村落共同体意識が根強く残っている日本社会は、だから企業にもその風土が色濃く残っています。企業は未だに労働者の採用にあたって、村落共同体よろしく「企業内共同体」への「踏み絵」を労働者(よそ者)に課すのです。そして「踏み絵」という儀式を通った後、彼ら労働者は一気に(ホントに一気に)「企業内共同体」の「身内」へと昇格するんです。

このようにして労働者の帰属意識を巧に利用しながら昭和の頃までの日本企業は破格の生産性を達成してきました。経営者は労働者を身内として「囲う」ことで生産性を担保し、労働者の側も企業に「囲われる」ことで安定した生活を担保していたのです。しかしその心理的原理は、小学校の運動会の「紅組」と「白組」の原理と同じです。擬似的な帰属意識に醸成された個々のエネルギーをそれぞれのチームに注ぐこと、注ぎ続けることが「正義の証」となるのです。

2000年代に入って、経済のグローバル化が本格化した…、つまりは新自由主義経済の波が日本社会にも襲ってきた頃、その頃までに学校教育を終えた一部の若者の中には、そんな企業への帰属意識を「ナンセンス」だと断定する傾向が見え始めます。大の大人が帰属意識の下で何の疑いもなく、何の虚しさもなく、個を捨て、たった一つのベクトルに向かってエネルギーを集約させながら働き、互いを労い合っている企業戦士の風景が、彼らにはきっと「子どものお遊戯」程度のものに映ったのでしょう。

ちょうどその頃、日本でも新自由主義の波に乗っかって「次代を担うビジネスマンの養成」を旗印に「日本版MBA」が設置されました。「経営学修士」と呼ばれるその学位は、特にアメリカではエリートビジネスマンにおいては必須のスキルとなり、日本からもそれにあやかろうとまとまった数の留学生がアメリカに渡ったと聞きます。そして彼らはアメリカでMBAを取得して日本に帰国します。するとアメリカ流の経営思想を前面に出した企業経営理論を武器に、若干30代半ばくらいの御仁が経営陣のキーパーソンになったりしました。時代は新自由主義経済のど真ん中。そしてその新自由主義経済の本家本元がアメリカです。もともと日本人はアメリカに弱いのですから「アメリカ帰りのMBAくん」を日本企業はたいそう贔屓にしていたそうです。

で、日本版MBAなんです。なにもアメリカにまで行かなくても日本の大学でMBAが取得できればそれでいいんじゃないか…、そういった安直な発想から日本版MBAができちゃいました。しかしその評判がよろしくない。だから修士課程が設置されてから各大学院では、早々に定員割れを招いてしまいます。それはどうしてかと言えば、そもそもアメリカのMBAの質を担保することができていないどころか、大学院でそれらを専門に教える専門家が圧倒的に足らなかったようなのです。慌てて塗ったメッキが剥がれてしまったのですね。



でも実際のところでは、少し事情が違っていたようです。日本版MBAにもそれなりの質が担保されていて、国内に居ながらにして英語(ビジネス英語)さえマスターすれば、それなりのステータス…、つまりは企業にとっての経営的キーパーソンには十分になれる…、という評価もあったのです。では、なぜ「日本版MBA」が浸透しなかったのでしょうか。

それは日本の経営陣に問題があったようです。アメリカで取得するにしろ日本で取得するにしろ、MBAを取得するには3年以上の実務経験が必要となります。つまり大学を卒業して一括採用した者の中から「これは…」と思う人材を選んで社費で取得させるのが一般的だったようですが、彼らが例えば本場で仕込んだ経営学理論を持ち帰ってこれるのは、早くても30歳前後となります。そこから本場仕込みの経営理論で活躍してくれればまだしも、そんな彼らをヘッドハンターが狙っています。高額の移籍金を用意して他者への転職を勧めるのです。そして企業はその動き(外部流出)を阻止しようとします。こうして新たな「囲い込み」が生まれていきます。

社外に重要な人材を流出させない…、これはかなり積極的な「囲い込み」作戦ですが、囲い込みは囲い込みです。前述した「企業内共同体」への「踏み絵」を伴った昭和的な「囲い込み」と比べると、一見して違ったもののように映りますが、労働者に「忠誠を誓わせる」という点に関しては、それら2種類の「囲い込み」は同根ではあります。

であるならば、期間も短く費用も安い「日本版MBA」でいいじゃないか…、となりそうですが、そこに経営陣の興味は向かなかったのですね。つまりMBAを彼ら一部の優秀な社員が取得している間(つまり学生として学んでいる間)に、他の社員が彼らのスキルを追い抜いていく…、そんな現象が起こってしまったのです。日本で学べる経営学修士理論程度なら、リカレント教育で十分に学べるっていうわけです。よって現在でも本場アメリカでのMBAなら希少価値(何といっても本場仕込みのビジネス英語は重要だそうです…)はありそうですが、残念ながら「日本版MBA」には先がなさそうです。

と、言い切ってはいけません。



日本の会社員は「何となくの会社への忠誠心」と「何となくのスキル」が備わっていて、職場内の人間関係さえ上手に泳ぐことができれば、それなりに出世もし生活は安定してきました。しかしこれからを生きるビジネスパーソンは「具体的な会社での働き方(労働契約)」と「具体的なスキル」を十分に身につけて企業からは独立した存在にならなければなりません。ビジネスパーソンとは言いますが、その精神と覚悟、それに知識も「個人事業主」のそれと同等なものが要求されるでしょう。

だからビジネスパーソンとしての自身を「高く維持」していくためなら、それこそリカレント教育に励み「日本版MBA」でも「会計専門職修士」「社会保険労務士」、それに「TOEIC900点」なんかに大いにチャレンジし、それらを取得しちゃえばいいんです。「時間がない!」ですって? 時間は自ら作り出しましょう。そうあなたは「社畜」ではないのです。企業に「囲われて」いるところの没個人ではないのです。

確かに「労働者」ではあります。しかし、あなたは完全に主体的に自らを生きる労働者…、つまり「ビジネスパーソン」なんです。

そのことにいち早く気づいた労働者こそ…、「ビジネスパーソン」を呼称すればいいのであって、未だに「囲い」「囲われ」しているところの相互扶助的な企業の社員がいいのなら、自らを「会社員」「サラリーマン」と呼べばいいのです。

 
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