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人生の躓き…、蹉跌ともいう。



「教員になる!」と決めた時、その瞬間から、私の人生にはハンディキャップが付きまといました。それはどんなハンデか…、というと、実にわかりやすく「私は勉強ができない」というものです。「勉強ができない」のに「教員になる…」、というのも何やら不遜ではありましたが、当時の私には根拠のない自信というものがみなぎっていて、「勉強ができないのなら、できるようにすればいい」と開き直っていたのです。

そもそも、私の「勉強ができない」は、高校時代の3年間に原因があります。おそらくは中学時代に芽生えた「自我」と正対しているうちに、日常では友人らと明るく過ごしながら「青春」を謳歌していましたが、私自身の心は、その内面に奥深く埋没していったのです(きっと)。だから周囲が学業に専念し大学受験に早々から備えている(一応、進学校だったので…)様を見て、まるで違う世界を覗いていた私は、どこかでそんな彼らを軽蔑していました。学業に追われるだけの彼らの「青春」が貧相なものに映ったのです。

つまり、私は学業からは完全に遠ざかりました。そして有り余るエネルギーのほとんどすべてを「人」との関係性の中で費やしていました。すると確信的、或いは必然的に規定のレールからはずれた私の周りには、それまでの人生では出会ったことのない「人々」が集まってきたのです。自称「優等生」であった私にとっては、それこそ「新種の人々」です。

実に面白く、ハラハラ・ドキドキが連続する毎日でしたが、そんな人々と接しているうちに「人生の意味」について深く考えるようになりました。「内面に奥深く埋没していった」のはそんな理由からです。



では、なぜ「人生の意味」について私が深く考えるようになったのかというと、当時の(今でもそうかもしれませんが…)私にとっての「魅力ある人々」というのが、ことごとく「学業とは無縁の人々」であったからです。正確に言えば「学業」や「学歴」をあてにしていない…、どこかでそういったものから超越しているところに生きている…、その生き様がとても清々しく美しい…、人生が未だに何ものであるかさえ分かっていなかった当時の私には、そのように思えたのです。

私には理解できていなかったのです。「学業」や「学歴」とは無縁の中で、毎日を楽しく充実させながら…、だから少しだけ大人になるスピードも早かったところの彼らの根底に流れる「焦り」と「苛立ち」を、私は何も理解しないまま、彼らの日常にある種の憧れさえ抱いていました。

18歳になった時、高校卒業と同時に就職を決めていた私とは別の学校に通う友人にこんなことを言われました。「お前は、大学へ行け」と。「今は…、いろんな意味でお前に負ける気はしない。けれどお前は大学へ行く…、そして4年後にはオレなんか簡単に逆転されちゃうんだな。そういうもんだと思うよ…」と。

その友人は、齢18にして人生の理不尽を悟っていたのです。

そして私は愕然としました。その友人のような覚悟をまるで持たないまま、ただ楽しければいいと無防備にその日暮らしを送っていただけの自分が、なにかとてもちっぽけな安っぽい人間に思えたのです。「学業」を修めたければ十分にその環境は揃っていたはずの自身の境遇にあって、私は何もしなかった…、ただ「人々」を見つめていた…、それだけの3年間であったことに改めて気づき愕然としたのです。その瞬間、私は「しくじった」と感じました。そしてそれが人生の最初の躓きでした。



その躓きを回復するのにたぶん7~8年はかかったと思います。何とか大学に進学し、こともあろうに自分からは一番離れたところにある選択肢であったはずの「教師」になると決めた私は、だから猛烈に勉強しました。ちなみに「教師になる」を決めたのが大学4年の夏ですから、実質的に私が猛烈に勉強をしたのは教師になった後のことです。授業が終わり、部活からも解放された夜の8時過ぎから職員室に居残って勉強をしました。今、巷で問題になっている「超過勤務=サービス残業」なんかでは絶対にありません。私は自分の「バカ」を何とか解消するために己の意志で居残っていたのですから、そのようにして「教師」の骨格を作り上げていた3年間は、確かに辛くはありましたが、完全に自己責任で続けていたものです。

お陰様でその甲斐があってか、25歳になってから、学校(高校)の中でも一番勉強ができるクラス「特進クラス」を任されるようになりました。しかし私はこの「特進クラス」に「闇」を感じました。「勉強ができるクラス」「大学受験に特化したクラス」という触れ込みで設置された「特進クラス」でしたが、そこには紛れもなく「勉強ができない」生徒が3割以上も存在していた…、そのことに私は早々に気づいてしまったのです。きっと生徒やその保護者の「見栄」で「特進クラス」に在籍していたのでしょうが、勉強が「できない」ものは「できない」のです。

その事実を学校当局は認めません。「ちゃんと成績(=偏差値)で篩(ふる)いにかけている」という理屈で、「だから本校の中ではもっとも標準偏差(=勉強ができるかできないかの差)が小さいクラスなんだ」と強気です。

それでも「勉強ができなかった」私にはわかるのです。彼ら3割の生徒が、実はとても苦しみながら、それでも(見栄のため?)何とか授業に付いてこようともがいていることが…。そして彼らには、私の高校時代のような「勉強ができない…、それが何か?」という開き直りが絶対にできません。だから(見栄で)「特進クラス」なんです。このねじれ現象を何とかしないと、例えば彼らの2年後、3年後には、本当の意味での「人生の躓き」が待っています。いや、「勉強ができない」と自覚した時点で、彼らの「躓き」はすでに始まっているのです。

「特進クラス」を指導する他の教員は涼しげな顔です。「勉強ができない…?仕方ないよね、特進なんだから…」と自身の守備範囲を着実に固めた状態での教師業を決め込んでいるようです。

そんな折、何人かの生徒が深刻な顔で私にこう言いました。「私たち勉強がわからないんです。わかるようになりたいんです。放課後に教えていただけませんか…」と。私は「なんでボクに?」と尋ねました。すると生徒は「先生も勉強できなかったんでしょ。そう言ってましたよね…、だから…」。

その一言で私は毎日の放課後の勉強会を約束しました。部活顧問を一時的に休ませてもらって彼らとの放課後勉強をシステム化したんです。そしてそのシステムが2年後に放課後講習会へと名称を変えて、部活と同等の扱いを受けることになりました。「勉強のやり直し」が「部活動」と認められたのです。



私にとっての最初の「人生の躓き」は、「勉強ができない」という副産物を伴って教員生活の最初の段階でこそ確かにハンデとなっていましたが、気がつけば、私の「勉強ができない」は、いつのまにかアドバンテージに様変わりしていました。

その後も、私は何度か「人生の躓き」に陥ることになります。しかし最初の「躓き」が結局は自身の教員生活に潤いを与え、少なくとも傲慢なだけの高飛車な教員にはならずにすんでいると思っていますから、その後の「躓き」も、私がより進化した教員に変わるためのアドバンテージになり得る…、そう自身に言い聞かせてそれらを乗り切ってきたつもりです。

「人生の躓き」…、やはり何度かは経験した方がいいようですね。

ところで、山田詠美氏の小説『僕は勉強ができない』は、私にとってはバイブル的な書物となっています。主人公の時田秀美は、私の等身大(であると勝手に私は思い込んでいるのですが…)でもあります。ご一読をお勧めします。
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