真のリーダーを求める時代。
企業の経営者や社長、学校の理事長や校長などは、何故か歴史好きが多いのですが、それは領国経営学や人心掌握術を自身の組織に落とし込み、歴史上の人物(為政者)に学ぶところが多いからであると思われます。
ところがすべての歴史上の人物…、例えば有名な戦国大名や幕藩体制下の藩主(大名)のすべてが、殊更に領国経営や人心掌握術に長けていたわけではありません。一部のカリスマ的戦国大名を除けば、その名を歴史に刻んでいる大名の中には、いわゆる凡庸と思える人物もたくさんいて、それら人物の偉業(功績)は、案外とその人物の傑出した能力というよりも、その人物を囲んでいる集団(組織)の力が大きかったのではないかと想像することができます。
特に徳川幕藩体制下の諸大名は、幕府設立当初の混沌とした時代にこそ、傑出した人物が現れ、彼らの突出した能力が必要とされたのでしょうが、幕藩体制が50年も過ぎた頃には、もはやそういった「カリスマ」は、ある意味で厄介な存在ともなり得るのですから、幕藩体制下で穏便に「お家」を守るためには、いかにも「凡庸」な人物(大名)こそが、時代の要請するリーダー像になっていったのです。
そして、そういった凡庸な(場合によっては無能な)リーダーの下では、意外と有能なる官僚組織が育ちます。大名家の場合、それに該当するのが家老職を筆頭とする家臣団組織になるのでしょうが、トップが凡庸(無能)であればあるほど、その下で「お家」を守る者たちの緊張感と危機感は半端でないであろうことは想像できます。
このことは現代の企業や学校組織にも言えることで、凡庸なリーダーの下における有能なる集団を抱えている組織の例を私はいくつか知っています。しかし勘違いしてはいけないのは、それら組織集団を束ねるリーダーの「凡庸さ」(無能さ)は、その凡庸さを当のリーダー自身が自覚しているという点において、すでに有能なる組織集団ができあがる素地が準備されている…、という意味でそういったリーダーは評価されるべき対象であるということです。
徳川幕藩体制下の「凡庸なる大名」は、その凡庸さゆえに「お家」を任せるに足る家臣団に領国の運営を任せたのであり、その意を汲んだ家臣団のそれぞれが我が身を投じて「お家」を守るために、それこそ身命を賭して経営に勤しんでいた…、つまり平時においては「凡庸」こそが大いなる武器になり得たのであり、その「凡庸」なる地位に飽き足らずに、ヘタに領国経営に首を突っ込んだがために、かえって「お家」の危機を招いたという事例なら、きっとたくさんあるに違いありません。
平時におけるリーダーの典型的なあり方は以上述べた如くで、これには多くの人々(労働者)には納得できることなんじゃないかと思います。「強力なるトップのリーダーシップの下で働きたい…」とする声は確かに聞こえてきますが、そういう声を発する人々というのは、やはり未だ組織というものの本質に気づいてない…、ちょっと青臭い人々のように私には映ってしまいます。繰り返しますが、平時においてはトップの「凡庸さ」の下でこそ、組織は活性化するものであり、中途半端な正義感による強力なリーダシップの発揮は、ともすると組織を膠着化させ、最悪の場合は組織の思考停止状態を招いてしまうものなのです。
ところが、このような「平時」に、この国の組織体はすっかり慣れっこになってしまいました。だから「非常時」の組織のあり方がわからない…、このことが政府、自治体、学校、企業、それらすべての組織体で露呈されたのが今次のコロナ禍です。会社への休業要請、学校の休校措置、国民への自粛要請…、それによって長期的な経済の停滞は避けられません。こういった事態は、75年前の戦時中以来の未曾有のできごとです。
そんな中で、世の中では「非常時」に強い真のリーダーの出現を待望しています。残念ながら「凡庸なる御仁」では、この国難を乗り切れないことはどこの組織体でも理解はしています。ドラスティックな改革と人々(国民・住民・社員・教員…)を力強く導いてくれるリーダーとはいったい誰なのか…。人々の注目はその一点に当分の間は集約されることでしょう。
平時ではなく非常時において「ダメなトップ」の下にいる…、例えば「ダメな社長の下で働き続ける」「ダメな校長の下で教育を続ける」「ダメな首長の下で住民を続ける」…、それがいかに悲劇であるかを私たちは思い知る必要があります。ちなみに歴史繋がりで言えば、戦国時代における戦国大名と家臣との関係は、あくまでも「契約」で成り立っていて、大名の側からも家臣の側からも契約を解除すればいくらでも流動的に関係性を変えることができました。「ダメな大名」の下にいて先が見えないのならば、さっさと主人を変えて新たな大名との契約を結ぶ…、場合によっては保身のために複数の大名と家臣契約を結ぶ武士もいたのですから、その後に成立する徳川幕藩体制とは随分と様相が違っていたことがうかがえます。
今、私たちの精神は、200年以上もの「平時」を謳歌した徳川時代から、激動の戦国の世に戻すべきなのかもしれません。己を少しでも高く評価しようとする主との出会いを求めて…、マンネリではなく、新たな志を同じくする真のリーダーを求めて…、あるいは高い理念と未来のカタチを見据えた教育を施す学校を求めて…、私たちは新しい時代に即した探求者とならねばなりません。そして場合によっては、自らが契約の主体となって新天地を求めるチャンスなのかもしれません。何物かに縛られていただけの自身を今こそ解放させて、心機一転、社会の流動に身を任せるのも「有り」かな…、無責任にもそう考えてしまいます。
「凡庸なるリーダー」が漫然と人々を導き「それで良し」とする時代は、もう終わります。ややトゲがあって尖っていても「強烈な個性」を前面に出しながら人々を導いていく…、そんなリーダーと出会わなければなりません。しかし、そういったカリスマ性は…、「諸刃の剣」でもあります。
重々、ご用心を…。
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