組織論…、つきつめれば家族論。
様々な理由で結婚しない…、つまり新たな家族をもちたがらない(もつことができない)人々が増えています。その社会学的理由について言及するつもりはありませんが、新たな家族を求めないことを選んだ人々を積極的に評価することに対する情緒的・合理的理由は、既に十分出揃っているので、もしも現在の私が40歳前後の独身男であったならば、そういった情緒的・合理的理由から、やはり「家族をもたない」ことを選択するのかもしれないと思うことがあります。
それでも家族をもたないことが、その人の人生からダイナミズムを奪い取り、(決してつまらないとは言いませんが)平坦なだけの日々の連続を送るだけの乾いた人生となってしまうリスク(と言っていいかは置いておいて)を背負っていることは、たぶん間違いないでしょう。
反面、敢えて確信的に家族をもたない人々もいて、それはそれで生き方としては潔しの部分があります。例えば複数の恋愛を渡り歩いて、それこそ「愛の求道者」の道を進むのであれば、結婚や家族はきっと足枷になるに決まっています。だからそういった恋愛に振り切った生き方を続けている人々というのは、それはそれでダイナミックな人生を送り続けているのであり、それを否定するつもりは毛頭ありません。
家族をもつ…、そのことが人生における複数の選択肢の一つにしかなり得ていないことは重々承知しているのですが、敢えて「家族をもつ」ことで、初めて気づく大切な人生観というのも…、これがあるんですね。
今は亡き西部邁氏が「家族論」という著書の中で、次のようなことを述べていました。詳細は忘れましたからその骨子だけでも紹介しておきますと、①人間の集合体の中で家族ほど厄介なものはない。②その厄介さは会社などの人間の集合体の比ではない。③人間関係の究極のマネジメント能力が家族には欠かせない。④職場の人間関係に疲弊しているだけの人間には家族をまとめることができない…、というものです(たしか…)。
つまり家族を人間関係の究極的な集合体とみなし、その家族こそもっとも厄介な代物であると述べているのです。では何が厄介なのか? 西部氏の論では、「あらゆる年代、あらゆる立場、あらゆる性別、あらゆる事情」の集合体が家族であり、進むべき方向性が示されている会社人の集合体とは違って、家族にはその方向性がなく、個々が勝手な方向に向かって進んでいる状態…、これをまとめる(マネジメントする)ことは、とてつもないエネルギーと互いへの気遣いが必要である…、と言うのです。
20年ほど前に出会った「家族論」を読んだ時、その論旨にスッーと合点のいく自分に気づきました。その頃の私は、ほどよく仲の良い、それでも時として火花を散らすほどの緊張感と共に妻との夫婦生活を送っていたのですが、その中にあってそれまで親には従順であっただけの一人娘が、ご多分にもれず見事な反抗期を迎え、あらゆる緊張を我が家にもたらしていました。長男である私と一人娘である妻との間には、私たちの4人の親がそれぞれの夫婦単位で老後の生活をスタートさせ、(詳細は省きますが)ここにも予想しがたい緊張が発生しました。
そんな混沌とした私の家族関係の中で、それでも夫としては…、父親としては…、長男としては…、それぞれの立場から最良の解を求めて、私は(たぶん)奮闘していたんです。そしてそれは妻とて同じことで、なんと娘だって同じ状況だったんです。私たちの4人の親もそれぞれが「家族という集合体」をより良きものにしようとして真剣に悩み続ける…、だから互いにぶつかり合う…、そして赦し合い、励まし合うのです。
そんな時に出会ったのが「家族論」でしたから、私は自身の置かれている立場に前向きになれたのです。そしてそういった経験は、私の場合、仕事にも影響を与えました。職場の人間関係を調整する立場…、気がついたらそんな役割を担うようになっていました。その頃からです。「職場の組織のあり方」について考え始めたのは…。
で、気づいちゃったんです。
な~んだ、職場の人間関係を束ねる方が簡単じゃん! って。
組織論などという小難しい理屈を最上段に構えて、「生産性の上がる組織にするためには…」などと議論・吹聴している…、それが職場の管理職のステータスのようになっていますが、では、その管理職の方々にお訊きしたい…。
「あんた方、まともに家族をまとめているの?」と。
「家族にとって欠かせない存在になっているの?」と。
組織論を語るなら、まずは「家族論」を語ろうではありませんか。
それでも家族をもたないことが、その人の人生からダイナミズムを奪い取り、(決してつまらないとは言いませんが)平坦なだけの日々の連続を送るだけの乾いた人生となってしまうリスク(と言っていいかは置いておいて)を背負っていることは、たぶん間違いないでしょう。
反面、敢えて確信的に家族をもたない人々もいて、それはそれで生き方としては潔しの部分があります。例えば複数の恋愛を渡り歩いて、それこそ「愛の求道者」の道を進むのであれば、結婚や家族はきっと足枷になるに決まっています。だからそういった恋愛に振り切った生き方を続けている人々というのは、それはそれでダイナミックな人生を送り続けているのであり、それを否定するつもりは毛頭ありません。
家族をもつ…、そのことが人生における複数の選択肢の一つにしかなり得ていないことは重々承知しているのですが、敢えて「家族をもつ」ことで、初めて気づく大切な人生観というのも…、これがあるんですね。
今は亡き西部邁氏が「家族論」という著書の中で、次のようなことを述べていました。詳細は忘れましたからその骨子だけでも紹介しておきますと、①人間の集合体の中で家族ほど厄介なものはない。②その厄介さは会社などの人間の集合体の比ではない。③人間関係の究極のマネジメント能力が家族には欠かせない。④職場の人間関係に疲弊しているだけの人間には家族をまとめることができない…、というものです(たしか…)。
つまり家族を人間関係の究極的な集合体とみなし、その家族こそもっとも厄介な代物であると述べているのです。では何が厄介なのか? 西部氏の論では、「あらゆる年代、あらゆる立場、あらゆる性別、あらゆる事情」の集合体が家族であり、進むべき方向性が示されている会社人の集合体とは違って、家族にはその方向性がなく、個々が勝手な方向に向かって進んでいる状態…、これをまとめる(マネジメントする)ことは、とてつもないエネルギーと互いへの気遣いが必要である…、と言うのです。
20年ほど前に出会った「家族論」を読んだ時、その論旨にスッーと合点のいく自分に気づきました。その頃の私は、ほどよく仲の良い、それでも時として火花を散らすほどの緊張感と共に妻との夫婦生活を送っていたのですが、その中にあってそれまで親には従順であっただけの一人娘が、ご多分にもれず見事な反抗期を迎え、あらゆる緊張を我が家にもたらしていました。長男である私と一人娘である妻との間には、私たちの4人の親がそれぞれの夫婦単位で老後の生活をスタートさせ、(詳細は省きますが)ここにも予想しがたい緊張が発生しました。
そんな混沌とした私の家族関係の中で、それでも夫としては…、父親としては…、長男としては…、それぞれの立場から最良の解を求めて、私は(たぶん)奮闘していたんです。そしてそれは妻とて同じことで、なんと娘だって同じ状況だったんです。私たちの4人の親もそれぞれが「家族という集合体」をより良きものにしようとして真剣に悩み続ける…、だから互いにぶつかり合う…、そして赦し合い、励まし合うのです。
そんな時に出会ったのが「家族論」でしたから、私は自身の置かれている立場に前向きになれたのです。そしてそういった経験は、私の場合、仕事にも影響を与えました。職場の人間関係を調整する立場…、気がついたらそんな役割を担うようになっていました。その頃からです。「職場の組織のあり方」について考え始めたのは…。
で、気づいちゃったんです。
な~んだ、職場の人間関係を束ねる方が簡単じゃん! って。
組織論などという小難しい理屈を最上段に構えて、「生産性の上がる組織にするためには…」などと議論・吹聴している…、それが職場の管理職のステータスのようになっていますが、では、その管理職の方々にお訊きしたい…。
「あんた方、まともに家族をまとめているの?」と。
「家族にとって欠かせない存在になっているの?」と。
組織論を語るなら、まずは「家族論」を語ろうではありませんか。
目次
組織論…、つきつめれば家族論。
職場では管理職を中心として深刻な「組織論」が展開されていることが多々あります。しかし所詮、職場の組織(人間関係)は、みなが同じ方向を向いているということに関しては、ある意味単純な組織なんです。それに引き換え、家族という集合体は年齢も性別も事情も立場も違う人間が、それこそ濃厚な状態で存在しています。その状態を組織というならば、家族をまともにマネジメントしようと思っている人々にとっては、職場のマネジメントは、その難しさで言えば家族の比ではありません。よって職場の組織論を語る前に「家族論」を語るべきです。
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