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オンライン~の対局にある世界。



猫も杓子も「オンライン~」に置き換えられている世相にあって、当法人でも毎月の各種セミナーをオンラインにしてみようと画策していますが、どうも生来のひねくれ者である私の場合、何でもオンライン化してしまう風潮にひとつ風穴を開けておきたいとする魂胆もありまして、世間の波に乗っかっての「オンライン化」に、ここは敢えて抗ってみようと思った次第です。

「~セミナー」や「~講座」をオンラインで実施することにあまり抵抗は感じません。ましてやビジネスの世界における「会議」や「打ち合わせ」は、オンラインでも十分に機能すると思いますし、ヘタに相手を忖度した空気になりにくいという利点もあるのかとも思います。

しかし学校の授業のオンライン化には、その導入を真剣に検討するならば、それらセミナーや会議とはまったく次元の違った慎重さが必要となるはずです。



学校での授業の本質が「知識の伝達」にのみあるとするならば、オンライン授業でOKです。事実、予備校の講義では既に30年以上も前からサテライト講義なるものが導入されていて、地方など、予備校に通えない受験生に受験知識を伝達していました。厳密にはサテライト講義はオンラインではなく単なるテレビ講義ですから、オンライン授業のような「双方向型」ではありません。よって両者を比較の対象にしてはいけないのでしょうが、例えば教師1人につきクラス生徒30人のオンライン授業を想定した場合、果たしてオンライン授業の最大の魅力であるはずの「双方向性」は十分に担保されるのでしょうか。

先月、私を含めた13名のオンラインセミナーを受講してみました。Zoom上でパワーポイントを展開したとてもわかりやすいセミナーでしたが、90分のセミナー中に「双方向」を意識した会話のやりとり(チャット機能を使ったり、実際に会話に参加したり…)に参加していたのは、私の他には4~5名ほどでした。もちろん大人を相手としたセミナーですから、みなさん十分に主催者や参加者に配慮してのオンラインセミナーです。つまらない質問や会話は、きっと貴重な「時間のロス」につながると考えていたのでしょう。私にも多少の「遠慮」がありましたが、この「遠慮」の空気感は、私の実感としては、対面でのセミナーよりも濃かったのではないか…、そう感じています。

今「遠慮」といいましたが、学校における一斉授業の場合にも、実は生徒の過半数は「遠慮」しながらの授業参加となっていることをご存じでしょうか。対面で行う授業は、曲がりなりにも「双方向性」を担保している筈ですが、それでも生徒は他の生徒に「遠慮」しながら…、つまり自身の発言がどのようにクラスの空気を変えてしまうのかについて細心の注意を払いながら、運悪く教師に指名された場合でも実に仕方なく当たり障りのない範囲での発言を心がけています。

もちろんそんなデリカシーの埒外に置かれている生徒も存在します。彼らには常に自身の「言葉」があり、周囲の空気などに構わずに発言することができる「授業リテラシー」が備わっていますから、そんな彼らにとっては、授業での「遠慮」などは無縁であり、それこそオンライン授業でもその威力は十分に発揮されるはずのものです。



ところが残りの過半数の生徒にはそれができません。中高生になってもそういったリテラシーを身につけることができていない生徒にとって、果たしてオンライン授業で彼らのコミュニケーション能力は十分に機能するのでしょうか。答えは火を見るよりも明らかです。彼ら過半数の「遠慮組」は、オンライン授業において能動的に参加する生徒からは一線を画して、ネットの裏に隠れてしまうことが予想されるのです。

個人的な見解として、私の授業の最終目的とは、毎時の授業で、子どもたちに何らかの「感動を与える」ことに尽きる…、長年の教師生活でそう思うに至りました。「感動を与える」とは、何も心を震わせるような特別な仕掛けを講じることではありません。「深く共感する」「心に響く」「大いに納得する」といった程度の心の変化を、毎時の授業で味わうことができる…、その程度の心模倣を私は「感動」と評価し、その「感動」が、たとえほんの一部の生徒にでも新たにもたらされることを目論んで私は授業に臨んでいます。

誤解を恐れずに言えば、「感動する」「共感する」には、ある種の洗脳が必要です。「洗脳」が言い過ぎならば、そういった現象は教師から生徒への「伝染」によってもたらされるものであると考えています。時節柄「伝染」などという言葉は、いささか不謹慎ではありますが、まさに「感動」は教師から生徒に「伝染る」ものであるということを私は実感し、そして確信しています。



ここに問題が生じます。つまり「感動」は、自己内発的な場合(読書や映画鑑賞におけるもの)を除き、ほぼ空気感染(これも不謹慎ですね)によってもたらされます。他者からもたらされる「感動」は、他者の「ナマの行為」や「ナマの言葉」に触発されたところにしか生じません。そして対面の授業とは、極論を言えばその空気感染を増幅させる装置になり得ます。

先にも述べましたが、多かれ少なかれ授業は教師から生徒への何らかの「洗脳」行為です。部活動における顧問から部員へのそれを含めて、ある種の洗脳の下で子どもたちは「感動」へと導かれていく…、それが強靱なる自己が確立されるまでの子どもたちには、成功体験をもたらす意味においても、実は有効なる手段であり、少なくとも簡単には否定できるものではありません。

ちなみに、この洗脳状態からは、遅くとも高校卒業までには解放されていなければなりません。若者(子どもたち)の中には、この洗脳状態が実は心地よく、つまりは他者によって与えられたところの「感動」を大人になっても待ち望んでいる人々が存在します。それは正しくは教育における最大の誤謬であり、若者にとっては実に悲劇的な状況であると言えるでしょう。

話を授業に戻します。



オンライン授業は、それ自体が否定されるものでは決してありません。知識や情報は確実に伝達できるでしょうし、使い方によっては、生徒の知的欲求に揺さぶりをかける…、その程度の高度な技術が出てくるのも時間の問題ではないかと思われます。

しかしながら、オンライン授業で「感動」は…、絶対に与えられません。教師は生徒と「感動」を共有することはできません。子どもたちの肌の熱量を直に感じることができない限りにおいて、だからオンライン授業には限界があります。それを私は断言します。

それでも私はオンライン授業の可能性を深く探っていきたいと思っています。限界があるのならば、その限界点にまで到達してみて、真にオンライン授業が有効に活用できる地点とはどんな地点なのか…、それを探ることは決して無駄ではないと考えるからです。

目次

オンライン授業の限界。

オンライン~が巷では爆発的に流行っていますが、オンライン授業に関しては、私は懐疑的です。私の究極的な授業の目的とは「生徒に感動を与える」ことで、その感動は(内発的感動でない限り)人から人へと空気感染するしか与えることができません。オンライン授業では、確かに知識や情報は効率的に伝達することが可能ですが、本来、人間が感じている肌の熱量を伴ったコミュニケーションとはなり得ず、つまりその技術をどんなに有効に使っても、教師は生徒に感動を与えることはできませんし、感動を共有することもできません。そこにオンライン授業の限界を感じます。

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