フィンランド教育からみる国家のありかた。
過日、前々からお願いしていたフィンランドセンターでの取材が実現しました。コロナの影響でセンター側でも在宅勤務を推奨しているようで、私の取材もZoomによるオンラインでの実現となりました。
フィンランドセンターの取材の第一目的は、もちろん「教育」です。近年、俄に注目され始めてきているフィンランド教育について、巷間に出回っているステレオタイプの評価(無条件に高評価)だけではなく、現在の教育制度・文化に至る過程や、小国だからこそ実現できたポイントを詳細に取材し、フィンランド教育を深掘りしたいとする思いが私にはありましたので、取材時間は2時間を超えてしまいました。
取材を終えての感想ですが、フィンランド教育と、その教育を受けて育った現代のフィンランド人には、日本では想像できないほどの「覚悟」がある…、という想いを強く抱くようになりました。このこと(覚悟)は、現行の日本の学校教育現場のみならず、広く企業の現場にも大きなヒントを与えることになるはずです。
人口530万人のフィンランドが、その国是として教育におもいっきり舵を切ったのには理由があります。歴史的には600年以上も続くスウェーデンによる領有と、その後100年に及ぶロシアへの編入は、フィンランド人(フィン人)のアイデンティティーをかなり屈折したものに変えてしまったようです。よって100年前のロシア革命の混乱に乗じて独立を果たしたフィンランドは、「二度と侵略・併合されない国家」の建設を目指したのです。
建国の父・スネイルマンはこう言いました。「教育は、小国の安全保障である」と。そしてこれがフィンランド教育のすべてを物語っています。「教育」を「安全保障」と宣言する、その振り切った考え方こそが、私にはフィンランド人の「覚悟」に思えます。
元々は、農林水産業でしか国の経済は支えられていませんでしたが、教育的安全保障政策の効果がやっと現れ始めた1980年代以降には、情報産業(は有名ですが…)や医療、観光、芸術の分野でもヨーロッパを牽引し、一人あたりのGDPは先進資本主義国のそれを上回っています。そして今では世界一の教育レベルを保ち、国民の幸福度も世界一であるといいます。
そんなフィンランドですが、教育にどんな魔法(手段)を使ったのでしょうか。答えはいたってシンプルです。フィンランドでは消費税24%の使途を、まずは社会保障政策費に落とし込みますが、これは他の北欧諸国も同じようなものです。しかし(これは私見ではありますが…)その社会保障政策の中核を為しているもののひとつが「教育」であり、その「教育」に税金を十分に使い切る…、そのことに対する徹底的なる合意が国民の間で図られている…、これがフィンランドの特徴なのではないかと私は考えました。「教育」が「社会保障政策」の一環(と私は理解しました)なんですね。だからフィンランド教育の最終目標は「国民の幸せ」であると言い切れるのです。
教育が「安全保障」であり「社会保障」でもある…、このような徹底した発想は残念ながら日本にはありません。OECD加盟国の中でも、教育費がGDPに占める割合がもっとも低い国の仲間に入っている現在の日本では、教育インフラの充実はもちろんのこと、教員の人件費を社会的に魅力のあるものへと引き上げることもできていません。戦後の75年間に見事に形成された役所の縦割りシステム…、そこに毎年自動的に落とし込まれる予算は、前年度踏襲主義そのものです。戦略もなければ哲学すらありませんね。つまりフィンランドのごとき「覚悟」が一㍉も見えてこないのです。
よってフィンランドでは、義務教育から大学までの学費がすべて無料です。生後9ヶ月目から5歳まで受けられる幼児教育こそ有料ですが、それとて世帯所得に応じて、月額3000円~30000円程度の負担であるといいます。そんなわけですから大学進学率も87%(日本は約50%)となっていて、当然のことながら社会人スキルは十分ですね。だから当然、スキルをもった労働力は男性のみならず、女性もどんどん社会進出を図れるんです。そしてそういった全国民型就業形態を可能にしている社会の根底に根付いている合意形成が、「子どもの面倒(教育)は国家が責任をもつ」というものです。
しかし重要なのは、国家が教員の地位を高く見積もっている…、ということです。フィンランドでは、医師や弁護士ほどではないにしろ、教員の社会的ステータスが確立されています。大学院卒でなければ採用されませんし、その採用試験にも15倍もの人々が毎年チャレンジするのだそうです。そしてもっとすごいのは(これは教員に限ったことではないようですが…)、教員として数年間勤務した後に、改めて大学院に通い直して新たな資格を取得することが珍しくはない…、ということなんです。社会ぐるみで教員のスキルアップを支援する…、そんなシステムができあがっているのですね。
羨ましい限りですが、これも人口が530万人しかいないフィンランドだからこそできることなのでしょう…、と諦めてはいけません。日本は(一応)地方分権国家です。東京都が1300万、神奈川県が900万、埼玉県が730万、千葉県が630万…、ですよね。だからそれぞれの地方がそれぞれのやり方で「教育」を打ち出すことだってできます。それができないのは、それをしないのは…、地方交付税の存在です。国は地方に交付税交付金という名の補助金を支給しています。「金を出すから口も出す」という姿勢で、国は教育行政をほとんど一元化してきました。教育の中央集権化…、これを「法の下の平等」とリンクさせて地方自治を骨抜きにしてきたんです。だから教育も日本全国「金太郎飴」のごとく統一されてきました。
しかし東京、神奈川、埼玉、千葉…、これらの地方は地方交付金をほとんど貰っていません。であるならば、国の呪縛から今こそ解放されて、首都圏からの教育ルネッサンスを発信してみたらどうでしょう。
コロナ禍にあって、実は地方は国を疑い始めています。ヘタをすれば独自のコロナ対策を打ち出すことでしょう。特に学校教育の再開において「地方政府」の決断が欠かせません。たぶん国の要請を超えたところの高い次元での政治的判断が地方の首長には課されています。
究極的には、国は国防だけを担っていればいい。警察も教育も社会保障も…、十分に地方政府が担うことができます。財政的にそれが無理な地方は、それ(財政)が整うまでは国の指揮下に置かれるとして、財政にゆとりがある地方から、どんどん分権政治を実現すればいいのです。そしてその分権政治の一番先頭に「教育」を掲げるのです。
フィンランドがよければフィンランド教育を手本に、オランダがよければイエナブラン教育を目標とすればいのです。要は中央政府の、そして地方政府の、さらには国民の、そして住民の「覚悟」なんですね。その「覚悟」さえあれば国づくり(地方づくり)はできます。
そういう社会に…、きっとなっていきます。だから学校経営も、企業経営も10年先の社会を見据えて「今」を見つめる…。
フィンランド教育の取材から、私はそんなことを学びました。
目次
フィンランド教育からみる国家のありかた。
教育先進国として有名なフィンランドですが、そこに至るまでの同国にはそれなりの苦難の歴史がありました。100年前に大国(ロシア)からの独立を成し遂げたフィンランドには独自の経済的資源がありませんでした。そこで「教育こそ安全保障である」とのスローガンの下、「教育」に特化した国づくりに邁進してきたのです。そしてそこにはフィンランド人の「覚悟」がうかがえます。翻って現代の日本にはその「覚悟」が見受けられません。何事も前例踏襲主義が蔓延し変化を恐れる日本に、たとえば「抜本的な教育改革」などはできません。しかしフィンランドと人口規模が近い地方政府であればそれは実現できるでしょう。地方分権を今こそ「教育」から進めるべきです。
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