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SDGs的精神の有効活用。



「SDGs積極的推進論」や「SDGs懐疑論」、はたまた「SDGs陰謀論」に至るまで、SDGs活動に関する様々な見解が全方位的に出揃った観があります。

ただ、実際の学校現場においては、特に小中学校の授業にまでSDGs的精神を涵養する内容が浸透していますから、今さら「SDGsの推進には問題あり!」と一部の大人が息巻いても、どうやら世界の流れを変えることは不可能なのではないかとも感じています。

たとえそのSDGs的精神が、単に「資本主義というゲームの大胆かつ新たなる『ルール改正』に過ぎない…」、だから結局はこれからの資本主義ゲームでも白人国家が勝ち続けていくための方便なのであり、その根底には「日本だけに留まらず…」中国や東南アジア勢の経済的成長が白人による世界支配を脅かすといった「黄禍論」に基づく「白人の恐怖」が存在する…、といった類いの論にも多少の説得力はありますので、私たちはその辺の理屈を慎重に知っておかねばならないでしょう。

歴史を振り返れば明白なことですが、近代以降の白人社会は…、そう、「キリスト教+資本主義」といった宗教的イデオロギーを強力に前面に出しながら、必死になって世界を支配してきました。よって、もはや政治・経済・軍事のあらゆる場面で、その白人支配を脅かす存在が出現するたびに白人国家が結束して、新たなる脅威を意図的に潰してきたのです。

その最たる存在が日本でした。

20世紀初頭の日露戦争までは、新興国である日本は「白人国家の手先」以外の何ものでもなく、世界戦略的には、白人がすべてを取り仕切る資本主義世界のアジア出張所であるに過ぎなかったのです。

よって日露戦争も、積極的に日本の外債を購入することでその戦費とさせ、日本に莫大な負債を負わせた状態でアメリカは終戦の仲介に入ります。「日本の戦費が底をついた」といったギリギリの状態での終戦の仲介ですから、「日本を勝たせた」というよりも、イギリスやアメリカのライバル国であるロシアのアジア進出を阻むといった目的の他に、当時の国家予算の数倍の負債を日本に負わせることで、間接的な日本への支配をも実現しようとしたのです。

この時の白人(イギリスとアメリカ)による2方面作戦、つまり「二兎を追って二兎とも得る」といった、いかにもイギリス的伝統工作で、結局はロシアを一時的に排除し、同時に日本を「白人の手先」以上の地位には昇らせない…、といった目的を達成するのです。

しかし、その10年後の第一次世界大戦で、白人は日本の驚異的な潜在力を目の当たりにします。「白人の手先」であったはずの日本の工業製品が、大戦で世界的供給力を失ったヨーロッパ諸国に代わってアジア市場を席巻する…、ここまでは白人国家の想定内のようでしたが、戦争の長期化により世界的な船舶不足に対応するための造船技術を保持していた日本に造船の依頼が殺到する…、これによって日本は莫大な利益を手にする…、と、ここまでは想定していなかったのが実際のところでしょう。

この「大戦景気」によって、日本はあっさりと白人(アメリカ+イギリス)への借金を返済しちゃいます。それどころか、借金をしていたのと同じくらいの額を他国に「貸す」ことができるほどに日本は儲かってしまったわけです。まさに第一次世界大戦は、日本を一夜にして「債務国から債権国へ」転換させたのです。

さらに、日本はその儲けを「軍事力の増強」に充てました。大戦ではアメリカも無傷の状態で経済が潤いましたが、日本社会よりもはるかに「民主主義が進んでいた」アメリカは、その儲けを簡単に軍事費に転移させることはできません。利益を国民に還元することが優先であり、それを無視した軍事力の増強は、議会がそれを許さないからです。

ところが、日本の民主主義は意図的にその発展がコントロールされていました。いわゆる「国家主義」というヤツで、国家の利益を優先し、その後に国民は豊かになれる…、そういった考えが当時の日本政府には根付いていましたから、「軍事力の増強」へのハードルは低く、その実現するスピードも早かったのです。

ちなみに当時の軍事力の優劣を決定するのは「海軍力」であり、保有する軍艦の数とその性能にかかっています。

さらにちなみに、日本が建造する軍艦の性能は「気がついたら世界一になっていた」という状態であったようです。明治政府が惜しみなく育ててきた近代自然科学分野への莫大な投資が、この時期になって日本発の新技術となってガンガンと結実していきます。軍艦を覆う「鉄鋼」にもその最先端技術が使われました。

物理・化学・薬学・医学の諸分野で、冗談ではなくノーベル賞が何個も取れてしまうほどの成果を日本の研究者は挙げていたのです(ノーベル賞が取れなかったのは白人でなかったから…、しかもその日本人の研究成果を白人がパクって、その白人がちゃっかりとノーベル賞を貰っちゃった…、というのが定説です)。

日本の軍艦は性能だけではなく、その保有数においても「気がついたらアメリカやイギリスに迫っていた」のです。当時の海軍が豪語していたようですが、「近いうちに軍艦保有数も世界一になる」といった計画の下で粛々と建造が行われていたというのです。

「ヤバい!」と真っ先に思ったのはアメリカです。イギリスとて「ヤバいかも?」と考えたでしょうが、イギリスと日本の間には日英同盟という軍事同盟があり、その双方の立場は締結以来、実質的には「イギリス優位」を保っていて、「日本は白人の手下」という認識はイギリスがもっとも強く抱いていましたから、その日本が白人の本格的な脅威になるなんてことはあまり考えていなかった節がイギリスにはあったようです。

しかしアメリカはリアリストに徹します。近い将来に「必ず日本は白人の脅威になる」と断定します。

ここまでの流れが、近代以降における初の「黄禍論」噴出の実態です。つまり「黄禍論」は、元々は「日本脅威論」であり、しかもその脅威に初めて敏感に反応したのがアメリカである…、といった事実を知ることが重要です。

つまり、その時以来、アメリカは常に「日本は潜在的に白人に脅威をもたらす」存在として研究の対象とします。実際に第二次世界大戦での勝利後も、アメリカは日本と日本人の研究にかなりの予算を投じて研究を続けてきたのですが、戦後の一時期の「油断」から、1980年代の日本の経済的繁栄を許してしまいます。

その時のアメリカ人の心情を端的に表した名著が「ジャパン・アズ・ナンバーワン」というヤツですね。「日本がアメリカを乗っ取ってしまう!」…、そのようにアメリカ人を思わせたのが1980年代の後半なんです。そしてこのアメリカ人の心理は、当時の日本人が思い始めていた「若干の優越感」をはるかに越えて、アメリカ人に「日本脅威論」を浸透させました。これが「第2の黄禍論」です。

この「第2の黄禍論」に対処するべくアメリカは捨て身の作戦に出ます。

日本の経済的繁栄が「バブル経済とその崩壊」によって終焉を迎えることはどなたもご存じでしょうが、その一連の経済ドラマの主要な演出者が「アメリカ」であったことは、もはや疑いようがありません。ただ、これ以上の詮索は「陰謀論者の戯言」として闇に葬られてしまいますから、誰も、当然にマスコミも言わないわけです。



さて、やっとSDGsに論が戻ってきました。

現在、SDGsを掲げて「世界を作り替えよう」としている勢力が白人国家であることは間違いなく、その根底に「黄禍論」が存在することも、恐らくは間違ってはいないでしょう。

しかし、今回の「黄禍論」の対象国は直接的には日本ではありません。もうお気づきの通り「中国」ですね。中国共産党が白人社会と白人が仕切ってきた資本主義を乗っ取ろうとしている…、これをリセットする必要があるというのが、SDGs的精神の根底に流れています。

この流れの中で、今回の日本の立ち位置は「白人側」として演じることが暗黙知となっています。だから日本政府も、とりわけ文科省、通産省は「SDGs的精神」の日本社会への浸透をいち早く図ったのです。その際の錦の御旗が「国連」なのですから、日本は国連をバックアップとした白人国家救済プランに加担している…、そう考えてもおかしくはないでしょう。

で、最後に本題です。

このSDGsの流れの中で、いったい日本はどのように資本主義を回していったらいのでしょうか?今さら「グローバル」を標榜して各種の規制を撤廃し、既得権にモウレツに斬り込んでいくなどといった荒技で白人資本主義に伍しても、GAFAやそれに準ずる巨大企業の前では、何ら力を発揮することができないであろうことは火を見るよりも明らかです。よって今さら「イノベーティブな発想」を持てと教育改革しても、白人国家の後塵を拝することは、ほぼ確実なわけです。

では、小学生や中学生の早い段階で「何のためのSDGs的精神」なのでしょうか?

答えはひとつ(ふたつ)。

それは「再生」と「リペアー」です。

この「再生」と「リペアー」が、日本人の伝統的お家芸だからです。「無」から「有」を作るのではなく、「有」から「無価値」になったモノに「有」を「再生」させる。そのポテンシャルを最大限に活かせる分野、それが「都市再生」「自然再生」です。

残念ながら、日本は災害が絶え間なく襲ってくる…、そういった地理的弱点をもっていますが、その弱点を「強み」に変えてきた歴史があります。日本人「都市再生」と「自然再生」の経験値は計り知れません。「持続可能な発展社会」といったお題目にはもってこいのポテンシャルを学校教育で子どもたちの精神に蘇らせることできれば、SDGsも日本的に有効活用することができるのです。

加えて「リペアー」=「修理」も日本人の得意分野です。もともと資源が少ない国ですから「製作」と「メンテナンス」そして「補修」は、常にワンセットになって社会に機能していました。そういった「職人」がたくさん存在し、その「技」を私たちはリスペクトしていたのです。

しかし、いつからでしょう?

そういった「職人」と「技」の価値は社会の隅に追いやられてしまいました。「直すより買った方がお得である」といった、資本主義の本質丸出しの悪しきイデオロギーに蔓延により、少なくとも平成の30年間は、「もったいない」という精神は、単に生活の方便に過ぎなくなったという「違和感をみんなが絶対に感じながら」モノを捨て…、そして買い換えてきたのです。

しかし、もうそういった精神的ストレスは不要です。やはり「使えるモノは使い続ける」…、その方が「納得がいく」し、「気持ちがいい」し、なんと言っても「カッコいい」からです。

その精神を取り戻すために「職人」が、ギリギリの状況ではありますが、まだ各分野で「技」を残してくれています。

中学生が高校への進学を考える際に、ずっと人気が低迷していた「工業高校」や「農業高校」が、ここ数年の間に志願者を伸ばしてきているようです。さらに軽度の知的障害を抱えている子どもたちの中には、かつては、保護者の抵抗が強かったこともあり無理して通常学級や普通科高校へ通っていた生徒が、敢えて特別支援学校に通って、そこでより具体的な職業教育を受け続けて社会人となっていく…、そういった流れが加速しているようです。

もはや「普通」の概念は崩壊しているのです。

「多様」な状態が「普通」「フツー」な社会になってきいている…、その延長線上に「SDGs的精神」が結びつけば、案外と「本物の日本型資本主義」の実現も夢ではないかも…、です。

 
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