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日本の学校、このままでいいのか?



教員として働く自身の職場である「学校」に危機感を抱きながら、それでも生活のために教員を続けている…、そういった方々は案外多いと思います。

教員…、辞めようかな?と漠然と思うことが、一度や二度はあるのが正常であるとは思うのですが、どうも現実的には、学校の教員の転職は「分が悪い」というのが今までの常識でした。

確かに、家族をもち我が子に対する責任を一身に担った状態、つまり既婚者の30代後半から40代では、職場における責任や収入という面からも、転職はリスクが大きいと判断せざるを得ませんね。

そういう私は、今の先生方よりも何倍も「精神的には自由な状態」で教員という仕事を続けてきたと思っているのですが、それでも思い出すことができるだけでも3回、確信的に「辞めてやる!」と思った時期がありました。

その3回とも、結果的には同僚や家族(特に妻)に諭され、そして職場の上司に懐柔された(と私は思っています)た結果、辞職を実行することなく定年まで勤め上げてきたわけです。

60歳で定年を迎え、同い年の同僚がみな「再雇用」に応じる中、私は頑なにそれを拒みました。他に生活の手立てがあったわけではないけれども「ただ辞めたかった」のです。そしてその時の決断に、今度は誰も異を唱えませんでした。

学校という職場に異変を感じたのは、50を過ぎた頃でした。私立の中学・高校という職場にあって、その学校が急速に「公立化」していく様をリアルタイムで感じていたのです。そういった変化を同僚の中には好意的に受け止める向きもあり、よって、ことさらにその変化に抗う人々はいなかったと思います。

しかし私の場合は、どうも「居心地」が悪くて仕方がなかったのです。

職場の「公立化」とは、教員の「公務員化」とセットで語ることができます。

当然のことですが、日本の学校の大半は公立学校です。なんとなく私立中学への受験がブームになっているような印象を受けますが、それは一部都内や、首都圏の特別な地域に限定された現象にすぎません。

そしてそういった傾向も、最近になって公立中学の人気が復権してきたという事実と照らし合わせれば、やはり義務教育は、今後も公立学校が主体になって、第一義的に担っていくのであるうことは明白です。

小中学校(義務教育)で私立を選択する、または一部のオルタナティヴ教育校に敢えて子どもを通わせるという選択は、やはり金銭的に余裕のある家庭でしか実現しないのです。そしてそういった家庭(子ども)は、全体の5%未満です。

ただ、高校になると私立への進学者が30%を超えます。首都圏になればなるほどその比率が上がっていくという傾向なんですが、義務教育の後の高等教育に「私立」を選択するという行為には、実は2種類のパターンが存在することは、学校関係者であれば誰でも知っている事実ですね。

① 私立の教育理念への共感や大学進学実績を優先したところの私立高校の選択。

② 公立を第1希望にしていたが、それが叶わず、第2希望として私立高校を選択。

さて問題になるのは、②のパターンからの入学者を大量に受け入れている私立高校の場合です。こういった高校は、全国に相当数あって、いずれも経営的には微妙な状況にあるようです。経営的に微妙なのですから、例えば他校との差別化を一気に図ろうとしても、その財源がありません。

古くは「スポーツ強豪校」や「準大学進学特化校」、最近では「国際バカロレア認定校」などが、それら他校との差別化を図る手段でした。でも、いずれも莫大な資金が必要となります。

で、全国の経営が微妙な私立高校の大半が向かった先…、それが「公立化」への道だったのです。私立でありながら公立の雰囲気を十分に感じることができる「多様性」と「自由」を担保とした「フツーの高校」を目指したのです。

そしてそういった「公立化」を実現するのは簡単です。お金もかかりません。

公立を退職した元校長先生を「校長」として招き入れればOKなんです。

これは都道府県教育委員会による私立高校の囲い込み作戦(と私は勝手に呼んでいるのですが…)の一環であり、誤解を恐れずに言えば「案外と私立高校にとってはありがたい」システムなんですね。何かの事態に襲われた時に、全面的に守ってもらえるという意味での教育委員会との関係性というのは、魂さえ売ってしまえば、私立にとっては安定経営の源です。

本来は、私立の学校は教育委員会とは別に行政上の管轄が決まっていて、一時期までは「学事課」という機関が、それを担っていました。現在ではその学事課も都道府県によっては様々な呼称に変わりましたが、少なくとも教育委員会とは別の次元で、管理されていたんです。

その管理態勢が、事実上一元的になった…、これが私立の「公立化」です。



だから私立の校長として、公立の校長経験者がどんどん天下ってきます。そして公立の常識を私立にも落とし込んでいくのです。

ちなみに公立学校の教員は「公務員」ですね。それをことさらに気にしたことはないかと思いますが、公立であれ、私立であれ、先生をいう職業に就いているのであれば、それは絶対に気にするべきことなんです。

かつて、公務員の中でも「教員」だけは、他の一般職とは別立てで管理されていました。

ご存じのように、公務員は絶対に「ルール・規則」に従って業務を遂行することが至上命令です。そうでなければ地域住民に対する公平なる行政サービスが実現できないからです。よって公務員には、その「公平さ」を担保するための無数の「マニュアル」が存在します。そしてそのことは別段に問題ではないし、当然と言えば当然のことです。

公務員は「融通がきかない!」と揶揄されますが、ある意味で「融通をきかせてはいけない」…、つまりマニュアル通りの行政サービスを続けていれば、むしろそちらの方が「融通がきかない!」という反感を受けるよりも、遙かに安全な地帯で仕事をすることができる…、つまり例え不測の事態に襲われても、マニュアルに従っていた公務員には、それを守るための「上位のマニュアル」がちゃんと準備されているのです。

これを究極のリスクマネジメントと呼ぶのかな…、って思ってしまうのですが、そういった状態で働くことが「公務員としては正解」であり、それ以外の働き方をする公務員がいれば、それは迷惑以外の何ものでもありません。

さて、公立の学校の教員は「公務員」問題ですが、かつての公立教員は、その「迷惑以外の何ものでもないところの公務員」だったのです。

公務員でありながらマニュアルに従わない…。自説(教育理念)を勝手に語る…。場合によっては子どもたちを思想的に誘導する…。といった自由気ままな状態で教員をやってました。

その教員を管理職は「管理することができなかった」…、というよりも「管理を諦めていた」という節もありました。それは何故か?

学校における主導権が、その現場で働く教員に握られていたからです。、その点で、管理職には圧倒的なコンプレックスがありました。

「教育現場における経験値が一般教員に比べて少ない」ことが、そのコンプレックスの原因です。だから実際に子どもに関わる様々な問題や学校行事を、まるで職人でもあるかのように的確にこなし、しかも同僚を仕切ることができるベテラン教員の存在を無視しては、学校が回っていかないことがわかっていたんです。

つまり、学校管理職は「何もしない」ことが常態化しました。

逆に教員が生き生きと教育をしていた…、と思いたいのですが、そういった延長線上に「校内暴力」や「いじめ」「不良」が大量に出現したことに対する世間の目が厳しくなった…、それを世間は教員に与えられ続けている「自由」が元凶じゃないかと思い始め、その「自由」「非管理」を助長する組織体として「教員組合」がやり玉に挙げられました。

こうして教員への「管理」が一気に強まっていった。それが1990年代です。そう金八先生が世間から退場していくタイミングです。

そのタイミングの併せて密かに(しれっと)登場したのが「教員への勤務評価制度」です。その制度が順次、各自治体で導入されて、今ではそれに抗う教員勢力はほとんど存在しません。そういった極端な教員管理に「NO」と突き続けていたベテラン教員が、次々と定年退職していったからです。

つまり、現行の公立学校と「公立化が進行中の私立学校」では、理論上、現場の教員が職場の空気を変える、具体的には教員組織にまで積極的に介入した上での「働きやすい職場=学校」を構築することが不可能なんです。そしてそこが民間企業(や一部伝統的私立学校)とは大きく違うところです。

しかし、そんな中でも、心ある先生方は、理想的な教育を実践しようと苦慮しています。熱心に様々な勉強に励みながら、それこそ「身を削って」先生を続けているのです。それはすべて「良き先生」(あらゆる面で子どもたちや保護者から支持を受け続けることができる先生)であろうとするための努力です。でも、そのためには人知れぬ「デリケートさ」を備えてなければなりません。

確認します。

公務員、または公務員化した教員には「マニュアル至上主義」が強要されます。それを無視した状態では出世はもちろんのこと、満足に本来の教員業務すらやらせてはくれません。教育委員会には伝家の宝刀としての「人事異動権」があり、それを発動すれば「掟破りの教員」には島流し(異動)が繰り返されて、その教員人生を実質的に「後悔と共に送らせる」ことができるからです。

しかし、教育の「マニュアル化」は、それを良かれと思って作成した「マニュアル」の作成者と同じような属性の中に生きる子どもにとっては有効ではあっても、その埒外に生きる子どもには本当の意味で通用しないことだって相当にあるはずです。そのヘンの違和感を感じ続けている教員の一部が「究極的にデリケートな教育」を実践しているからこそ、「マニュアル教育の問題点」が殊更にクローズアップされていませんが、そんなデリケート先生たちの中から、相当数の先生が「辞める」「休職する」を選んでいること…、実は現場の教員はとっくに気づいていますよね。

断わっておきますが、本来、子どもたちの教育そのものに興味がない、そしてコミュニケーション能力自体ににも問題があって、かつ、そのままの状態で教員を続けていこうとするほどの傲慢さがない故に、教員を辞めていく人も少なからずいますが、そういった人は「デリケート先生」の枠には入れないものとします。

学校を変えていく…、そのこと自体が「非現実行為」のように思ってしまう…、それ自体が「公務員マインド」です。

学校で働く、そんな自分の職場には、常に正義の鐘が鳴り続けていなければなりません。

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