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お父さんは、なぜ「キャンプへ行こう!」と言い出すのか?(4)



学校とお父さん(2)

現代の学校制度の中で、家族という単位が一丸となって取り組むべき時期・・・、それが中学校期ではないか、と密かに考えている。実はそれほどに子どもの中学校期を無難にやり過ごすことは難しい。それは中学生が青年期の初期、つまりは「思春期」を迎えることで生じる「自我の芽生え」と、彼らが初めて認識化する「社会=大人」とが、彼らにとっては決して一直線上に捉えることができないからであると思われる。

しかし、そのような思春期特有の「プチ混乱現象」は、その濃淡の差こそあれ、誰でもが経験してきたことではあるはずだ。ところが大人は、いつしかそのような現実社会との不整合から生じる「自我への懐疑」や「大人への不信」を、かつての自身も確実に抱いていて、であるからこそ答えの見えない焦燥の中で「悶々とした日々」を生きていたことを忘れてしまう。よって唯一信頼できるものは、自身の置かれている境遇・・・、それを同じくする「一部の友」だけであったのだ・・・、ということも先刻承知なはずである(忘れているが・・・)。親への抵抗、教師(=大人)への不信・・・、決して言語化することのできないそれらの「悶々とした意識」を理解し、受け入れてくれるもの・・・、それが「一部の友」だったのである。そして、その時期以来「一部の友」は、初めての「親友」という地位へと昇華することになる。しかし、その親友の生成過程すら忘れてしまう。

どうやら完成した社会人が到達する境地というものは、そのような思春期におとずれる「心理面での歪み」という経験を、ある種意図的に消去することで初めて見えてくるものなのかもしれない。でなければ、何故、我が子の「思春期の到来」に、親(父親も母親も)はあれほどまでに困惑するのであろうか。たかだか二十数年前に自身が経験したところの「思春期=青年期初期」・・・、それと同じ現象が我が子に発生した時、ほぼ例外なく親はうろたえる。そしてその「うろたえ」の中から、我が子の「思春期」を伴った特別な(ホントに特別な)時期を、丸ごと学校(=中学校)に委託してしまう親が・・・、実に多い。

結論から先に述べれば、子どもの「思春期」は、学校と家庭(=家族)が協働した状態で対峙するのが理想的だ。まず学校、そして家庭は、生徒に「青年期」、そして青年期の初期であるところの「思春期」を発達学、または発達心理学の観点から正しく教えるべきである。事実、中学校では1年生の保健体育の教科書で「心身の機能の発達と心の健康」という章を組んで、青年期特有の体の変化と心の変化についてのかなり具体的な学習を施してはいる。つまり、12~13歳の子どもに、彼らが突入する青年期では「体の変化」の不思議と、それに伴う「心の様変わり」について、まずは「知識として教え込もう」とする教育現場からのアプローチがうかがえる。そしてそのような教育面における慎重な学校の取り組みは正しいと思う。ところが、この「青年期」を迎えた子どもたちに生じる特有の「焦燥」や「懐疑」、「苛立ち」を正確に受け取ることのできる「家庭」が少ない。だから彼らの心理的混乱をも学校が受け皿となって対処せねばならないのである。子どもたちに(大人たちが考える)正しい「考え方」「生き方」を積極的に教え込もう・・・、そうやってできあがった教科が「道徳科」であると理解することができる。

「道徳科」で青年期を扱う・・・、その意味がわかるだろうか。

子どもが大人へと成長する過程で、とてつもなく大きな意味をもつ「青年期」・・・、その誰にとっても捉えどころのない難しい時期を、中学の教育課程は、まさに「教育的に乗り越えさせる」ことを目的として作られている。つまり子どもにおとずれた「青年期」は、大人(=教師)の指導の下で上手に克服することができる・・・、そのための「道徳科」だ・・・、だから学校の「教育的指導」に従っていれば大丈夫・・・、そのようなメッセージを国(=文科省)または自治体は、子どもたちに自信をもって発する責任がある・・・、それが、それまでは「総合的学習」という曖昧なカテゴリーの中で、各地域の学校や教員たちが慎重に手探りを重ねながら実践してきたところの「道徳」を、「教科」へと昇格させた真の狙いであると理解することができる。つまり「青年期」以降の子どもたち(大人へとだいぶ近づいた子どもたち)の「ものごとの考え方」や「生き方の指針」の構築に、学校(中学校)が今まで以上に躊躇することなく前面に躍り出てきたということとなる。

中学の「道徳」の教科書を何冊か見てみた。断っておくが、「道徳」の「教科書」である。

「道徳」が「総合的学習」の一部であったことは述べたが、それが晴れて(一部の人々にとっては実にめでたい現象なのだ・・・)「教科」へと格上げされることの意味は限りなく大きい。具体的には、それまで学校や場合によっては教員個々の裁量で実践されてきた「道徳」に、「教科書」が登場してきたのである。そして実は、そのことをもって安堵している教員も案外と多いのだと聞いている。例えば教員個々の裁量で実践されるていたそれまでの「道徳」活動に、確固たる自信を持てないでいた教員にとっては、やはり「教科書」の登場はありがたい。道徳活動に利用することができそうな「ネタ」(大抵の場合は教材会社が「副教材として事前に買わせておいたものの中から「ネタ」を指定するのであるが・・・)を探して、そのネタを元に「何をどのように悩ませ・・・、その後どのように考えさせ・・・、問題の解決(落としどころ)をどの地点に設定するか・・・」について、個々の教員が必要以上に悩まなくて済む・・・、それだけでも道徳の「教科化」は、教員が指導する「道徳」=「人として正しい考え方や正しい生き方の探求」が、権威の後ろ盾を確立したことになるのであるから、一部の人々(教員の多数?)にとっては「めでたい」出来事なのである。

ここで確認しておこう。

子どもにとっての「青年期」と彼らがそこから確立させてゆく「アイデンティティー」は、その後の人格の中枢を占める。そしてその人格が「完成された社会人」として、彼らを取り巻く「社会」との調和を図りながら自身の人生を展開させてゆくのである・・・、ということに関してはお分かりいただけていると思う。だがしかし、その「人格の中枢を占めるアイデンティティーの確立」が、学校の「教科」の下で(結果的に)一元管理されていることに、保護者として疑問を抱くことはないのであろうか?

子どもたちは「青年期」に煩悶を繰り返す。そして時としてその「煩悶」が、彼らの不規則、不安定な言動となって現れる・・・、そのこと自体を「想定内」として、大人たちは青年期に生きる子どもたちへのキャパシティーを最大限に保って、彼らの「煩悶」を見守るべきであろう。ところが現行の中学校では、そのような「見守る」文化が随分と廃れてしまったようだ。いや、本当は「見守ってあげたい」と教員は思っているのであろうが、そのような流暢なことを言っている場合ではない・・・、そのように中学教員は感じいている(たぶん)。

そのひとつの原因が「地域社会の目」にある。特に首都圏にあっては、住宅街の中核に学校が存在する場合が多いが、その学校を取り巻く住宅街の住民が、例外なく高齢化してきた。そしてその高齢者は一日のほとんどの時間を地域社会に過ごす。当然に地域社会は、彼ら高齢者にとって居心地が良い場所でなければならず、数に勝る彼ら高齢者は、その地域の住環境を良好に保つべく様々なネットワークを駆使して地域社会の主役へと躍り出た。現役世代が通勤や通学で地域から一時的に姿を消している昼間の地域社会における高齢者割合がとんでもなく高いという事実は、それを実感したければ、例えばポスティング(チラシ配り)などというアルバイトを体験すればすぐにわかる。高齢者が元気に街を切り盛りしているのである。

ところがこの高齢者のマインドと青年期の只中にある中学生のマインドは、互いに相容れない(ようだ)。日常的な安定を好み、変化を嫌う・・・、それが高齢者の典型であるとした場合、中学生の日常は変化の連続だ。しかもその「心の変化」とそれにともなう中学生の言動は無軌道を極めている。そしてそのような状態こそが「青年期」である・・・、などということを金輪際忘れ去っている高齢者は、極論を言えば、中学生の存在自体を忌み嫌う傾向にある。

もちろん福祉的精神に芽生えた中学生もいて、彼らのように積極的に高齢者の側へと寄り添う子どもたちを高齢者は喜んで受け入れる。しかしそうではない・・・、つまり大半の青年期にある子どもたちがそうであるような野性的表情を伴った時として荒々しい中学生を、実は高齢者は意識下から遠ざけているのではないか・・・、そう感じるときがある。小学生の登下校時に通学路に立ち、喜んで黄色い旗を振る高齢者はたくさんいるのに、中学生の(特に)下校時に、子どもたちが大きく道を外さないような「遠くからの見守り」ができる、そして時として彼らに対して信念をもって「叱る」「諭す」という根気を備えた高齢者がはたしてどれほど存在するというのであろうか?

中学生と高齢者の関係性・・・、その実態はそのような理想からはほど遠く、実は高齢者からの中学校へのクレームが圧倒的に多いと聞く。一部の高齢者の堅く閉ざされた「生活保守の心情」に、中学生の無軌道は、あたかも彼らの生活を破壊する恐れのある存在そして高齢者の恐怖を煽るのかもしれない。よって高齢者の一部は、学校に電話をする。「近くの公園で『たむろ』している」「大声ではしゃいでいる」「自転車のマナーが悪い」「挨拶もできない」・・・、これらを早急に改善しろ・・・、という高齢者からの要請に学校現場は、その都度対応を余儀なくされるのだ。

子どもたちの「青年期」をじっくりと見守ることができない2つ目の理由・・・、それが「高校受験」である。中学の教員にとって子どもたちの「高校受験」は、決して「しくじらせてはならない」という意味で最重要事項となっている。いや、本当は「青年期」の成長過程を考えれば、高校受験というそれまでの人生の中での「一大事」における「しくじり」も、彼らにとっては「挫折」や「蹉跌」となって、その後のアイデンティティーの確立には十分な栄養素とはなり得る。事実、一部の県では敢えて高校受験での「失敗」を想定した「高校受験浪人」を想定した教育体制を敷いていて、自治体がそのような彼らの存在を文化として受け入れている。

ところが大半の自治体には、そのような余裕はない。これにも住民(保護者)からのクレームが関係しているからだ。「十分な進路指導が受けられなかった」「先生の言うとおりに受験したら不合格となった」「先生が子どもに余計なプレッシャーをかけた」・・・、考えられる限りのクレームで我が子の「失敗」を学校の責任とする風潮が、ここ30年間くらいで主流となってきたのである。

であるならば、中学校の側も「守りの体制に入る」のは当然のことである。つまり中学校は高校受験に対して、あらゆる「リスクを避ける」傾向が顕著となったのである。よって「安全志向」が蔓延する。決して「チャレンジさせない」という高校受験に対する暗黙の文化が現行の中学には横たわるのである。つまり「キミならできる!」「やってみろ!」と言える教員が子どもたちの周りから見受けられないのである。だから時に「チャレンジしたい!」と宣言する子ども(家庭)が出てきても、「ハイ、では自己責任で・・・」となって、決して中学校はそのチャレンジにコミットはしない。

しかし、そのような傾向になったのは、決して中学校の教員の責任ではない。高校受験における「安定志向」は全家庭に行き届いていて、だから受験での「失敗」が、子どもたちと保護者に必要以上の「恐怖」を与えている。そのようなマインドに子どもたち(大人たちも)が支配されたのは、間違いなくバブル崩壊後の経済的不況にあると見る。社会全体の「萎縮」が子どもたちの「チャレンジ精神」をも奪ったのであるが、同時に「青年期」を生きる子どもたちの、ある種無限の可能性とその可能性に投じるエネルギーの発露対象を奪ってしまったのである。

以上のように、現行の中学校では、その構造上から「子どもの『青年期』を理想的な状態で支えることができない」・・・、そのように覚悟しておいた方がいい。中学校は「地域社会」と「高校受験」という両者からのプレッシャーで、青年期にある子どもたちにとっては「やってはいけない手段」を無意識のうちにとり続けているからである。その「やってはいけない手段」・・・、それが過度の「管理教育」である。

子どもたちの管理を強化すれば、例えば「地域社会」で高齢者が眉をひそめる行為は減るであろうし、高校受験で威力を発揮する「内申書」の地位は格段に向上し、それがために子どもたちの(健全なる)社会や大人に対する「批判のための思考」は停止する・・・、いや、厳密に言えば「停止させられた状態」に留め置かれる。そしてそのような学校運営に特化した場合、大人にとって、そして思考を停止させられた子どもにとっては都合がいい。学校にとっての「良い子」が、高校受験でも「良い思い」をする構図へと様変わりしてしまったからである。つまり中学校は、「父性」を優位に保った「強権」によって、子どもたちを完全に支配する「装置」へと作り変えられたのである。だから中学校には「父性」しか存在しない。「命令」が飛び交う。「煩悶」は許されない。「謎の校則」に支配される。女性教員も間違いなく「父性を帯びる」・・・。

では、そのような中学校にあって「思考が停止されなかった」子どもたちはどうすればいいのか? 彼らが感じる強烈な「違和感」や「不信感」は誰がそれを汲み取ってあげられるのか? 残念ながら彼らは、その複雑な思いを未だ言語化することには慣れてはいない。であるならば、その言語化されない「心の内」は、学校ではなく「家庭」「家族」が十分に受け取ってあげなければならないのだ。「家族」が、とりわけ「お父さん」が、学校の教員以上にその社会性を十分に帯びたところの「お父さん」が、子どもの心の受け皿となる・・・、そうやって「子どもの思考の連続」を手助けするのだ。

おそらくは、それだけで子どもは「青年期」を勇気をもって生き続けていくことができるし、中学校から発現する「不登校」の大半は解消するのではないかと考える。

子どもの「青年期」・・・、それを取り巻く「中学校」や「地域社会」、それに「高校受験」には子どもたちだけの「感覚」では対処することができない「大人の事情」も多くある。そんな大人たちに翻弄されるだけの「青年期」・・・、思考が停止させられた状態での「青年期」・・・、そんな状態では子どもたちのアイデンティティーは危うい状態で未成熟に留まるのである。

学校を科学する、地域社会を科学する、そして高校受験を科学する・・・、それって、案外とお父さんの得意分野だったりするんです!

(つづく)

 
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