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お父さんは、なぜ「キャンプへ行こう!」と言い出すのか?(3)



お父さんと「学校」(1)

母親とは違って、父親が子育てに本格的に参加(コミット)する適切な時期が「子どもの青年期」であることを確認した。それは「子どもの青年期」への突入が、子ども自身では正しく理解できずに一時的な精神的混乱をもたらす・・・、その混乱を遠目で見てあげながら、時として父親が介入するべき瞬間が必ずおとずれるからである。そういった意味で、父親が常に社会と繋がっていることの意味は大きい。子どもの混乱は、芽生えたばかりの「自我」と現実の社会とのギャップによってもたらされるかるからだ。つまりは、子どもの青年期とは「家族の一大事」であると捉えるのが正しいと思う。

だが、それは子どもが青年期を迎えるまでの間に「家族の一大事」が他に発生しなかった場合のシュミレーションに過ぎない。子どもが青年期を迎える前に、家族の誰かに病気や怪我による災厄が襲った場合にも「家族の一大事警報」は発令されるし、最近では「小1プロブレム」や「不登校」などの「学校」との関係性から発生する「家族の一大事」も散見されることが多くなった。

そんな時にこそお父さんの出番が回ってくる。つまり母子一体となって母親が子育てに勤しむ間にも、一見するとお父さんの出番はない・・・、とばかりに暢気に振る舞っていると見せかけておいて、常に「家族の一大事」に対する臨戦態勢をとっておく・・・、というのが家族の中における正しいお父さんのポジションである。つまりお父さんには家族を守る最終的な砦としての重大な役割が備わっていなければならない。だが、そのような「頼れるお父さん」になるためのマネジメントは、やはり妻(母親)の役目であると心得た方が、妙な期待をし続けないで済む分、妻(母親)にとってのストレスも半減するということは知っておいた方がいい。繰り返しになるが、そのくらい夫(父親)は、家族の構築という観点からは、「鈍感」からスタートしているものなのである。

例えば子どもが「小1プロブレム」に見舞われたり「不登校」という深刻な事態に遭遇した場合、その状態から子どもを救出することができるのは、ハッキリ言って「家族」でしかない。つまり「小1プロブレム」も「不登校」も、学校に起因する問題であるのだから、本質的にはその問題を学校も当然の如く深刻に受け止めるが、実はその受け止め方が「家族」のそれとは随分と違ってくることを理解するべきである。

だから、その場合に備えて、予め家族による現代の「学校の定義」を明確にしておく必要がある。

「学校」とは国や地方自治体による教育機関である。母子一体となって育てた子どもは、様々な事情もあって早期に保育園に預けたり、そうでなくとも幼稚園に通わせたりする。この場合の保育園や幼稚園は、母子一体子育てを前提とした、その連続性の中に位置する「保育>教育」機関である。確かに保育園が厚労省管轄で幼稚園が文科省管轄であることから、幼稚園の方により早期教育機関としての役割が担わされているのであろうが、それでも幼稚園には営々と築かれてきた「保育と福祉」の要素が十分に備わっている。そしてその精神は、実は小学校の低学年にまでちゃんと受け継がれていて、そのために小学校低学年、特に1~2年生の担任には伝統的に「保育・福祉・教育」という分野を総合的に網羅することができる技量の備わった「ベテランの女性教師」が配属されるのが普通であった。

ところがそういった伝統は次の2つの原因によって現在の小学校では、それを実現することが困難となっている。その原因の1つ目が「ベテラン女性教師」の物理的人員不足である。それをもたらしたのは、いわゆる「団塊の世代」が定年によって大量に教育現場から去っていったことによる。そしてその穴を埋めるべき「ベテラン女性教師」の人的ボリュームが減ったので、そこに中堅教師や場合によっては教員経験の浅い若手教員が配属されたからである。そして小学校側は「それでも問題はない」とうそぶいている。「問題がない・・・はずがない」のである。

なぜ小学校の低学年の担任に「ベテラン女性教師」が必要かといえば、それは「母性による子育て」の延長線上にその学齢の子どもたちが未だに存在することを教育関係者が十分に理解していたからである。そしてそれは理屈ではない。子育てにおける父親(父性)の必要性は、母親のそれ(母性)に比べればかなり遅れてその必要性が増してくるが、それと同じ事が小学校にも当てはまると言える。確認するが、子どもの養育は「母子一体」から始まって、しばらくの間は「母性」による包摂環境の中で行われるのが自然の摂理というものである。そこには残念ながら政治的な意図での男女平等主義が入り込む余地はない。よって「男」は、まずはサポートに徹するに限るのである。

ちなみに「学校」という教育機関は、その設立の趣旨が「父性」によっている。明治期以来続いている日本の学校教育機関は、「国民教育機関」として国家が主導して作らせたものである。国民に等しく教育を施して国家の発展のため、つまりは「富国強兵」を実現するための装置としての「学校」は、だから断然「男の産物」であり、そこには「父性」が存在する。その「父性」を根拠とする学校という装置に、母性から育てられ続けた子どもたちが入ってくるのであるから、そこには相当な配慮が必要となるはずである。そしてそのことをかつての「学校」は理解していた。よって私の個人的な小学校に対する不安は、学校のそのような理解が薄弱化し始めたここ10年位に強まったと言える。

小学校の低学年の担任に「ベテラン女性教師」が配属されなくなったという伝統が崩壊した2つ目の理由として挙げられるのが、小学校教員の「高学歴化」である。十数年前から教職課程の更なる充実を図るため、そしてより優秀な教員を輩出するための「教職課程大学院(仮称?)」構想が持ち上がっているが、その狙いはより複雑化する学校教育を担うための情報とスキルを身につけるための専門教育を大学院にまで延長して実践しようというものであった。つまりは教職の「専門職化」である。

教職大学院構想は未だに実現はしていないが、公立でも私立でも軒並み「大学院卒」が採用されるという傾向となっていることは事実である。その効果は未だに検証はされていないが、おそらくは高度に学んだ専門教育学や発達心理学、それに現場で即戦力として通用するほどの授業力などが、学校の教育現場で大いに発揮されているのであろうと(やや不安ではあるが)思う。ところが問題なのは、この大学院卒の新規教員を、それを預かる学校がどうも「過大評価しすぎている」という現実である。そしてそこには管理職を中心とする既存の教員の「学歴コンプレックス」が見え隠れしている・・・、そのように見えるのは私だけであろうか? もしもそうでないとするなら、なぜあれほどまでに大学院卒の新規教員を特別扱いするのであろうか。どんなに学歴を積んでも、現場では所詮「ぺーぺー」なわけで、「自分『ペーペー』なんでどうかご指導お願いします」という声を、実は彼らも発している・・・、にも関わらず、そんな「高学歴『ペーペー』教員」を、いきなり小学生の低学年担任として迎え入れる・・・、その神経がわからないのである。何か大きな思い違いをしていることは間違いない・・・、そう思う。

という観点から「学校」を眺めた場合、「学校」の本性が「父性」であるのだから、こと学校に起因する子どもの問題には、やはり父親が主導で取り組んだ方が利にかなっているし、その背後に控える母親の不安も解消されるであろう。母親は、実は学校の「父性」をとっくに見抜いている(と思われる)。だから母親は「学校」を相手とすることが苦手であることが多い、よって母親は「学校との親和性を重視する」ことで日常から子どもを間接的に守っているのである。そんな母親が「学校に起因する子どもの重大な問題」に対処するすること自体に無理がある。よって父親の真価が問われるのである。

実は母親は潜在的に、学校に対してある種特別な思いを抱いて見ている。それは「学校」に対する過大評価となって母親の思考を停止させる。つまり母親にしてみれば、1人や2人の子どもの面倒にも相当に手を焼いているのにもかかわらず、そんな子どもを集団で預かり、その子どもらに「秩序」とやらを与えることができる学校と教員に対する尊敬の念を抱かざるを得ない・・・、という特別視である。よって潜在的な母親の学校への「神聖視」は、学校という「父性」との親和性を助長する。母親は自分には到底持ち得ることのない何か魔法の力が、学校と教員には「きっと備わっている」と思いながら子どもを学校に預けるのである。

この学校の「父性」と母親の「母性」の相性はいい。そしてちなみに、一般論として女性は「権威・権力」に弱い傾向がある。それは女性が論理性よりも(本能的に)感情を優先して物事を処理していることと大いに関係すると考える。女性が感情に支配されている、だから女性が劣っているなどということでは金輪際ない。女性の「感情」は、時として男性の「論理」を凌駕するほどの威力を発揮することがあるからだ。そのくらい女性の(ある種スピリチュアルな)感情からもたらされる判断力に、男がタジタジになることの実例は枚挙にいとまがない。したがって、その意味で女性が弱点とするのは「権威・権力」の下における自身の根拠の薄弱な感情論があまりにも無力であると感じる・・・、その点ある。

つまり逆を言えば、女性の時にかなりの核心を突いた感情論・・・、それを男性の論理で上回るための手段として「権威・権力」が存在すると考えればいい。だから男は「権威・権力」を求め、それにすがるのであろう。その「権威・権力」の権化が「学校」であると捉えた場合、その学校と教員に同じ目線から挑み、そこにある矛盾や理不尽を追求することは、たぶん普通の母親にはできない芸当だ。ということは、学校という教育現場とは、父性が母性をその内側に取り込んで、完全に「父性優位」な状態の中でしか存続することができない・・・、そういう機関(装置)となっている。

もしここ(学校)に「父性」を大上段にかざす父親が乗り込んできた場合、学校には一気に緊張が走る。その「父性」をもって母親の「母性」を取り込んでいることで成り立つ学校への「新たな父性」からの切り込みを、そもそも学校は想定していなかったからである。

例えばPTA。これこそ「母性」の集合体である。時にそのPTA組織の中に父親が参加することもあるが、その場合の父親とは例外なく「多分に母性を伴ったところの父親」である。試しに「父性の濃い父親」がPTA活動に参加してみるといい。その父親はたちまち居場所をなくすか、またはその父親の「父性」が前面に出すぎて、おそらく組織は崩壊する。そのくらい学校の「父性」と母親の「母性」は絶妙なバランスの下に、例えばPTAは機能してきたのである。

だが、そのような牧歌的な学校組織にも限界が生じてきた。「学校=父性」という装置の中で、「母性」が主導する子育てを引き受ける小学校では、母親との親和性を担保する必要性から女性教員の割合が高い。つまり「父性」からなる「学校」を実質的に回しているのが「母性」なのである。この絶妙なバランス感覚が、学校へのクレームの多発で、近年、完全に様変わりしてきた。つまり、クレームに対して何にでも「言いなり」になってきていただけの学校が、いよいよ反転攻勢をするように変わってきたのである。「受け身」だけだった学校が「攻め」の姿勢を取り始めた・・・、このこと自体は健全な成り行きであろうと思うが・・・、その結果、学校を回す教員(ソフトパワー)の「父性」が強まったことは事実であろう。よって現在の小学校の実態とは、「父性」からなる「権力装置」をなんとか「母性」でその「権威・権力」を希釈してきた状態から、本来的に備わっている「父性」を隠すことなく露わにしたところの「権力機関」へと進化した。

そこに「母性」のみによって育てられてきた一部の子どもが「強烈な違和感」を感じ取ることは、至極当然なことである。よって「小1プロブレム」も「不登校」も、その根底にあるのは「学校」の過度な「父性」の表出にある・・・、そう考えると合点がいくのである。

だから学校の「父性」には、家族の「父性」で対応した方がいい。そこに父親の出番があるのだ。そういった微妙な学校の変化に敏感に反応することがでいない家族が、今や(やや語弊はあるが)モンスター化した学校という装置に相変わらず母親を重要な任務を負った使者として送り込むのであるから、当然に母親は遭難し、学校に起因する子どもの諸問題(家族の一大事)を正しく解決することができないのである。

「家族の一大事」・・・、そこには「ガンバレお父さん!」で臨むのが得策である。

ところで、学校の「父性」が強まった・・・、その最強措置が「中学校」であることをここで暴露する。その中学の現状については、次回に譲ろう。

(つづく)

 

 

 

 
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