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お父さんは、なぜ「キャンプへ行こう!」と言い出すのか?(2)

 



神秘を生きる母親

私には娘がひとりいて、その娘に2人の子どもがいる。未だ乳幼児期を脱していない孫たちではあるが、案外と接する機会には恵まれている。精神的には完全に傍観者・・・、ジジというのは最高の傍観者になり得るのかもしれない・・・、という立場から孫たちの成長を「人間の不思議」と捉えて観察し、眺めていることができる。

ところが私の妻の立場となると、そうはいかない。妻は娘の妊娠時から「出産~子育てモード」を全開にして娘の一大事に対処する体制をとり続けている。そしてそれは、かつて妻が娘を授かった時に妻の母親もやはりそうであったことを思い出させる。誰がそのように申し合わせたわけではないのであろうが、「出産~授乳期」には男手は必要としない。母親とそれを献身的に支える祖母の存在が備わってさえいれば、ハッキリ言って男は足手纏いですらある。

よって授乳期までの男(夫)の役割とは、せいぜい妻の精神的・身体的疲労を緩和させる程度のことに限定される。そして夫も妻も「それでいい」と割り切る必要がある。間違っても妻は夫に子育てに関する「答え」を求めてはいけない。気の利いた夫なら、その「答え」を育児書に求め「一般論」として伝達することはできるだろう。しかしその程度の情報なら、大抵の場合は妊娠初期の段階で、妻は既にインストゥール済みである。ママ友ネットワークの威力もあるだろうし、それに何と言っても子育ての「生き字引」、つまりは祖母の存在に敵うはずもない。

大切なのは、授乳期までの子育てに「本当の意味でコミットすることなんか無理なんだよ」ということを夫に知らしめること、そして「あなたが本当に必要となるのはもう少し先になってから・・・」っていうことをハッキリと言葉で分からせてあげたほうがいいということだ。例えば子どもの「謎の夜泣き」に若い夫婦は困惑するであろうが、それを結局解消することができるのは「母親だけ」という事実に男(夫)は愕然とする。母親の発する匂いと体温、それに鼓動が子どもに安心感を与えるから・・・、という学問的な知識なら男(夫)にだってある程度は持ち得ているのであるが、まさか授乳期までの子どもにとって母親以外の存在が、その他の存在として「みな同じ」であるということ・・・、つまりはごく初期の子育て段階では「父親としてのアドバンテージはゼロ」という現実を知った時、男(夫)は途方に暮れるし、自身の存在意義を大いに疑ってしまう。だから上記のことは予め伝達しておいた方がいい。それが妻がこれから父親になろうとする夫に施すマネジメントの最初となるのであろう。

妻が母親としての準備と覚悟を、妊娠の初期段階から本能的にし始めるのに対して、夫の父親としての体制が整うにはだいぶ時間がかかる・・・、ということは前述した。母親と父親の精神的装備の完了までにタイムラグが存在するということである。しかしこのタイムラグ自体が、実はその後の子育てにとっては、とても重要な要素になり得るのではないか・・・、最近ではそんなふうに感じているのであるが、それについては後述する。

「妊娠~出産~子育て」までを、母親は「子どもの時間」に生きる。そしてその時間は「神秘の時間」でもある。「生命」をもっとも身近に感じながら、本当の意味で初めて体験する「死」への恐怖に襲われるのも子どもと時間を共有しているからである。母は子どもの外敵を無意識に察知し、本能的にそれへの対処をするべく全身、全神経を研ぎ澄ませる。「子どもを抱っこして街を歩いていると周りの人がみんな凶悪犯に見えてくる」・・・、そう言ったのは一人目の子どもを産んでから数ヶ月経った頃の私の娘であった。そのような状況に置かれる母親は、その子どもの言動から日々見せられる「不思議」と相まって、一時的なトランス状態に陥っているのかもしれない・・・、そうでないにしても自身の長い人生の中で、ある意味で現実社会からはもっともかけ離れた「彼岸」に接近した時期を生きているのではないかとすら想像してしまう。

子育ての終わりをどのタイミングにするかについては諸説あるのであろうが、例えば子どものアイデンティティーが確立する青年後期であるとした場合、母親は20年以上もの間、子どもと明確に分離できないまま、実は不安定な精神世界を生きていることになる。なぜならば子どものアイデンティティーが徐々にできあがっていく・・・、そのことをもって母親は本来の「自身のアイデンティティー」に戻らなければならないのであるが、大抵の場合はそれに失敗するからだ。母親が自身のアイデンティティーの元へ上手に着地することができるかどうかについては、母親(妻)と父親(夫)が「子どもの青年期の始まり」を共有することができているか、ということにかかってくる。つまり母親にとっては、子どもの青年期の始まりが、子離れの助走期間となり、それを恐れる母親(妻)のその背中を静かに、けれども確実に押し続けてあげるのが父親(夫)の本来の役割だからである。

具体的には、子どもの青年期の始まり(13歳頃)を悟った父親は、そのタイミングで「子育てモード」を全開にする。とは言っても、この「全開」とは、それまでの期間に母親が自身のアイデンティティーをも保留にした状態で、全身全霊を子どもに向けてきたところの「全開」とはだいぶ違うことを認識しなければならない。なぜならば子どもの青年期とは、子どもが社会と少しずつ向き合い、長い時間をかけながらも新たに誕生した「自己」と「社会」とを上手にアジャストメントしていく過程なのであるから、たとえ母親が徐々に子どもの見る景色の中からその影を薄めていくことに成功したとしても、父親がそれまでの母親と同じ「子育て全開モード」では、子どもの成長・・・、つまりアイデンティティーの確立には正直なところ有害ですらある。

ここで父親は、実に難しい局面に立つことになる。「我が子との正しい『距離』の取り方」という難題にブチ当たるのである。「友人との・・・」「先生との・・・」「同僚との・・・」「上司との・・・」、こういった関係性での正しい「距離」の取り方なら、既に十分に学んできているし訓練もされている。だが「我が子との正しい『距離』」となると、幾分、いや、かなり心許ないはずだ。しかしこの「距離」を上手に保てずに、間違った状態で子育てにコミットしようとした時、思わぬ「しっぺ返し」を喰らうであろうことは覚悟するべきだ。

その「しっぺ返し」の最初が、母親であるところの「妻の勘違い」となって現れる。子どもの青年期に、夫が上手に、しかも十分に子育てに介入することができていないと無意識に感じ取った「妻」が、父親がするべき子育ての代替をやはり無意識のうちに引き受けてしまう・・・という勘違いである。しかし、その勘違いもちゃんとした根拠はあって、子どもから発せられるある種のシグナルによって導かれている可能性が高い。そういった意味で、母親の勘違いは、自身へのアイデンティティーへの回帰の失敗ではあっても、決して「見当違い」ではない。

母親のそれまでの子育ては、「育児書」から入手した最低限度の常識の他は、その大部分が「自身の母親からの情報」と「母としての自身の『勘』」によって続けられてきた。どんなに科学が進化し、生命の不思議が解明されたとしても、結局「男」には「説明してもわかってもらえない分野が存在する」という全女性共通の認識のようなものがあって、であるがために子育ての核心に関しては「秘伝」として、実は人類史上「女性が代々受け継いでいる」・・・、そのように考えた方が男としても納得がいくし、責任回避も容易にできるのだから、それでもいいと思っているのだが・・・、と勘ぐってしまうほど、子育てに対して「男」は「おいてけぼり」だ。

ところで、この「秘伝」(もちろん比喩ではあるが・・・)の部分の「自身の母親からの情報」というのが「全人類共通の子育て術」であるのならば、「母としての自身の『勘』」・・・、それが「我が子という個体が有する特性・個性を育む術」といえるのではないか。その部分を「母」は、「勘」を研ぎ澄ませながら子育てを続けてきたのである。そう「青年期」を迎えるまでは・・・。

鋭いお父さんなら、もうお気づきであろう。

母親(妻)は、子どもが青年期を迎えるまでの間、どこかで「神秘」を感じながら、ずっと子どもの「不思議」と向き合って生きてきた。濃淡こそあれ、その精神性は「神秘主義」にも近く、そして「スピリチュアル」との親和性も強いだろう。つまり「幼な子をもつ女性は圧倒的に霊的」でもある・・・と断定するにはさすがに無理はあるが、無理も当然だ。そんな事実は現代科学では明かされていないからである。しかし現代科学までの「科学」の枠組みを作ってきたのが「男社会」であることは認識しておかねばならない。

この母親(妻)が生きる「神秘」的時間の流れの中から、徐々に妻の現実(リアル)を取り戻してあげる・・・、そのための父親(夫)の出番・・・、それが子どもの青年期から子育てに介入することの意味である。そしてその介入の仕方は、心意気は「全開モード」ではあるが、子どもに映るその姿、つまり存在感は「半開」状態がいい。子どもの見える範囲で「ここにいるよ!」がわかればいいのである。この段階における父親と子どもの「距離」の取り方が難しいことは既に述べたが、父親がそれを恐れていてはどうにもならないし、妻を現実に取り戻すことはできない。そして妻が「神秘」の世界での初期の子育てから脱皮できない状態では、結局のところ子どものアイデンティティーの確立に大きく影響するであろう。母が子どものアイデンティティーと同化しようとするからだ。

それが「母親の陥る勘違い」の最終段階である。しかし、そんなヤバイ状況に陥らないためには何らかの「生物学的意図」があって、父親の子育て介入が遅らされていた・・・、そう考えると男(夫)はだいぶ楽になる。子育てへの介入の遅れ、そして「神秘」世界の未体験が、父親を現実社会人として担保させていたのであるから、父は子どもの世界に、夫は妻の世界に少しずつ現実社会を投影していってあげればいい。それが子どもの青年期に行うことのできる父親の、または夫の唯一かつ最大の役割であると考えるならば、やはり母親に比して、父親としての覚醒が遅れる・・・、つまり母と父の自覚の芽生えにタイムラグが存在するということは、案外と利にかなっているのかもしれない。

そんな時の父親(夫)からの提案が「キャンプに行こう!」であるならば、そのこと自体は健全なる家族の証ともなり得るのである。「キャンプに行こう!」は、そう、お父さんの子育てへの本格的介入の宣言・・・、そのように捉えられるからだ。

 
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