ブログ

HOME//ブログ//お父さんは、なぜ「キャンプへ行こう!」と言い出すのか?(1)

ブログ

お父さんは、なぜ「キャンプへ行こう!」と言い出すのか?(1)



お母さんの憂鬱

人間の集合体を「組織」と考えた場合、世の中に存在するあらゆる人間関係(=組織体)の中で、もっとも小規模のものが「家族」である。ところがその最小単位の組織体であるはずの「家族」であるからこそ、私たちが容易に対処することのできないもっとも厄介な「問題」が山積するのである・・・、そのように主張したのが保守の論客(評論家)の西部邁氏であった(詳細は氏の著書「家族論」をお読みいただきたい)。

西部氏は言う。会社などの組織体における人間関係ならば、それぞれの「属性」が似通っているからそこで発生するトラブルはさほど大きな問題へと発展することはない、と。つまりその会社に勤めるに至った動機や学歴、職場で獲得してきた様々な価値観、それに何といっても20代から60代までの「同じ方向性を目指す大人」からなる組織体ならば、幾分かのストレスは覚悟しなければならないが、大抵の場合は上手にそれらのトラブルを克服していく、それが社会人であると言う。

ところが「家族」となるとそうはいかない。

社会人は自身が属する社会(=組織)内で自己の感情をありのままに露呈させることは滅多なことではしない。だが「家族」内だけは治外法権である。家族のそれぞれが自己の感情のままに生活を続けたいと思う。そしてそれは至極当然のことである。社会性という「箍(タガ)」を嵌められた自身を唯一解放してあげることができるオアシス・・・、それが大抵の人にとっての「家庭」であり、それを許容することに互いが合意しているところの人間集団が「家族」なのである。よって「家族」にはそれぞれの剥き出しの感情をそのまま引き受ける機能が備わっていなければならず・・・、しかし実はその機能が「家族」に初めから備わっているわけではない。

そのことに一番最初に気づくのが「子どもを育てる母親」である。家族内での立ち位置が「妻」から「母」へと変わる瞬間を、大抵の女性は劇的な変化として受け止めるであろう。子どもが生まれたその時から、妻は母親としての役割を強制的に担うこととなり、そこに一分の躊躇もあってはならないのであるから、この劇的な変化に女性は(ある種の喜びをも含めてではあるが・・・)「戸惑う」のである。

告白をしよう。

だが、男(夫)には劇的な変化は訪れない。いや、その変化に気づくことはあるのだが、それとて随分と時間が経過してからのことである。妻が母親になる・・・、そのこと自体とはかなりのタイムラグが存在することは紛れもない事実である。つまり男は「父親」をしばらくは実感として受け入れることなく、モラトリアムの時間を生きることができるのである。「父親」としての自覚が芽生える・・・、それには実は途方もなく長い時間と根気を要する「妻のマネジメント力」が不可欠なのである。そしてそのようなマネジメントなくしては、男は「真の父親」としてスタートを切ることができない。「何をどのように考えればいいのか」がまるでわからず、ただ「父親」という響きから本能的にかろうじての責任感が芽生えるに過ぎないのだ。

ということは、「妻」が「母親」になった瞬間から、その母親にはそこから始まる無限に逃げ切ることのできない「子育て」の他に、十分にコミットすることができる「父親を育てる」(マネージメントする)という重責がのしかかってくるということになる。しかし大抵の「妻」はそれをしようとはしない。なぜならば「妻」は「夫」を、「女」は「男」を買い被っているからである。夫の小さな責任感が「彼をきっと立派な父親へと導いてくれる」という幻想を抱いているからである。しかしそれは間違っている。9割の確率で断言する。

ただ「夫」の側にだって言い分がある。「気づくのが遅かった」「そんなこと誰も教えてくれなかった」という言い分である。確かに夫の育った家族からも親戚からも、それに学校からだって「父親学」などというものは伝授されてないじゃないか・・・、とする言い分にも一理はある。妊娠と同時に「母親」になることを生物学的にも決定づけられ、それへの準備と覚悟を本能に従って養成してきた「妻」とは違って、感覚的には何も変わっていない「夫」に「父親」の正しい役割が理解できるはずもない。

若い男女が結婚をして、そして子どもを授かる・・・、実はその段階から「妻の家族像」と「夫の家族像」にズレが生じてくる・・・という事実を指摘する声は未だ聞かない。しかし「夫」が「父親」となることにより「家族」に対する責任感にリアリティーが生じる・・・という程度の(男の)変化に比して、「妻」が「母親」となることにより生じる「女の変化」の方が、遙かに大きなものであるということを、改めて私たちは直視しなければならない。

ところで「結婚」とは、自律した人格をもつ男女の、ある種の社会的契約であると理解することができる。つまり理想的には、双方が予め自律した存在なのであるから、両者の間には片務的な要素、例えば一方(夫)が別の一方(妻)に依存するだけの関係性を、「結婚」という契約からは排除することが可能となる。

「自律した人格」とは、男女のそれぞれが健全に青年期を過ごし、それぞれのアイデンティティーを確立することで手に入れることができる人間性のことである。そのアイデンティティーの確立は早ければ18歳くらい、遅くても25歳くらいまでの間に完了するというのが、精神分析学や社会心理学における定説である。そしてそのアイデンティティーの確立期と、確立された「自己」が社会的に十分受け入れられることを確認させるまでの「モラトリアム期」・・・、それを含めた時期を「青年期」という。

では、双方に自律したところの男女が夫婦になった・・・、その後の風景を「夫」と「妻」のそれぞれについて、それぞれの「アイデンティティーの揺らぎ」という面から考えてみたいと思う。

遅くとも25歳くらいまでの間に確立されるアイデンティティー(現在の研究では青年期が30歳代までズレこんでいるとする見解もあるが・・・)ではあるが、そのアイデンティティーを根拠に、例えば男は、社会人としての適性を日常的にアップデートさせながら、現実社会とのアジャストメントを果たしていく。その過程で男には「アイデンティティーの揺らぎ」は存在しない。そしてそれは女とて同様である・・・はずである・・・、出産をしなければ・・・。

女性にとっての出産~育児~子育て期というのは、結論から述べれば、自身のアイデンティティーの崩壊期でもあると言える。いや、厳密に言えばおそらくアイデンティティーは崩壊してはいないのであろう。しかし現実社会から乖離されたところで、それを使命として行っている母親の育児や子育ては、日々「不安」や「焦燥」、それに「不測」や「理不尽」の連続である。

母親のアイデンティティーは、出産をするまでの間に、確かに自身の自律を促した。ところが育児~子育ては、その「自己」を社会的に適応させるためのアップデートを途中で中断させること、つまりは社会とは遮断された小世界で、母は「人間の神秘」「生物としての根源」と真正面から向き合うことになる。子どもが発するシグナル・・・、そこに日常の全神経を集中させながら母は・・・、そう、(ある種)動物的感覚を頼りに子どもの命を守り、育て続けなければならない。そして、そこには自身のアイデンティティーの入り込む余地などほとんどないのである。よって母は、自己のアイデンティティーを一時的に保留状態とする。自分の「個性」や「人生観」、ものごとの「考え方」や「捉え方」は一端外においといて、母は原始的な営みを続ける必要があり、その他の選択肢は存在しない。

そういったことを「アイデンティティーの崩壊」とみた場合、子どもを授かったすべての女性は、ほぼ例外なくアイデンティティーが、一度断絶していると考える方がわかりやすい。

私見ではあるが、アイデンティティーそれ自体は、一度確立したらその人物の根源的な個性や能力の司令塔の役割を果たすのであろうが、男女の別、年齢の違いにかかわらず、実はアイデンティティーは「無意識下で変化していく」ものであると考えている。その意味で、子をもつ女性のアイデンティティーが一度崩壊する・・・、ということは、女性は、子育てという果てしない「煩悶」の中から、新たに「母のアイデンティティー」を獲得していくのかもしれない・・・、そう思うことがある。

ただ、いずれにしても「夫」には、この女性(妻)の「焦燥」と「煩悶」は正しく伝わってこない。だから相変わらず「夫」は「自分の時間」を生きることが可能なのである。ところが「妻」=「母」は「自分の時間」を生きてはいない。母は完全に「子どもの時間」を生きている。母子一体の「時間=空間」を生きるのである。そしてそれでいい。

ところがそれ(母子一体の時間=空間)を、「夫」(男)が理解することは難しい。たとえ頭で理解できても、それを共有することはできないのである。なぜならば、そこ(母子一体の時間=空間)には、男が踏み込んではいけない「結界のようなもの」の存在を、たぶん本能的に感じてしまうからなのではないか・・・、と思う。「自分の出る幕ではない・・・」という場面に、男(夫)は、たとえ父親となったとしても、何度も遭遇する。よって父は常にタイミングを見計らっている。

母子一体となって「子どもの時間」を生きる「妻」=「母」の世界に、ただ寄り添ってさえいればいいものを、夫(父)の日常的な「後ろめたさ」が、母子一体となって形成されている家族に、自身の痕跡を強烈に残したいとする願望を引き起こす。それは新たな家族になんらコミットする術をしらない夫(父)の「贖罪」にも近い気持ちである。

だからお父さんは突然「キャンプに行こう!」と言い出すのである・・・、と私は考えている。それは父親の精一杯の家族との同化行為であり、一発逆転を狙った一大イベントなのである。したがって「キャンプ」は、特に子どもが幼少期である場合、つまり子どもの側から「行こう!」と言わない限り、完全に父親の父権獲得手段なのである。

そういった「男の性質」を、たぶん生物学的には次元の違う地点で眺めている「妻」=「母親」は、おそらくはため息と共に、または半笑いを伴って眺めているはずである。いくらキャンプで挽回しようとしても、「夫」=「父親」に下される評価は常に「赤点」状態である。

自分の好きなことしかしない・・・、まったく役に立たない・・・、なんの相談役にもなりゃしない・・・、それが世の子育てに忙殺されている「妻」=「母親」の「夫」=「父親」に対する評価である。よって大概のお父さんは「赤点」を抱えている。当然、赤点には「補習」があって「再試験」がある。

しかし、その「補習」は・・・、妻の役割である。

繰り返すが、妻のマネジメントなくして夫は「有能なる父親」にはなれない。そしてそのことを理解している「有能なる妻」もたくさん存在すると思う。

しかしそのことを考えると「お母さんは憂鬱」になる。だって夫のマネジメント・・・、それって「子どもが1人増えたってことと同じよね・・・」ってことに気づくからである。

(つづく)

 

 

 

 
SHARE
シェアする
[addtoany]

ブログ一覧